豊臣氏 - 江戸幕府にかけての美濃森氏とは? わかりやすく解説

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豊臣氏 - 江戸幕府にかけての美濃森氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/28 15:00 UTC 版)

森氏」の記事における「豊臣氏 - 江戸幕府にかけての美濃森氏」の解説

本能寺の変後謀反人明智光秀討った豊臣秀吉織田家一の大功労者として信長亡き後世継ぎ問題において圧倒的に優位な立場となる。そして幼少織田信長嫡孫その後継に据えその後見人になることに成功織田家所領問題においても功臣への所領分配をも意のまま分配した。これによって織田家実権事実上秀吉掌中入った。これを不服とした織田家筆頭家老柴田勝家織田信孝は対豊臣戦線張る森長可はそれには加わらず変後のかなり早期段階から親秀吉姿勢打ち出し東美濃の信孝配下諸氏の守る城を攻略し始める。 やがて、織田家抗争の中で信孝は討たれ賤ヶ岳の戦い秀吉軍が柴田勝家を討つ。そして秀吉天下取り布石が固まる。そのため、織田家盟友であった大大名徳家康対立深め豊臣徳川の間で小牧・長久手の戦い勃発するこの中で池田恒興森長可大将とした豊臣方三河国中の徳川領内奥深くまで進軍し家康率い強靭な三河武士前に散々な敗北喫した。 この戦によって池田恒興森長可討ち死にする。この時、出陣前に遺した長可の遺書を手にした秀吉大い嘆き悲しんだという。鬼武蔵異名をとった森氏大黒柱たる長可亡き後森氏後継可成末子森忠政引き継がれる豊臣政権確立貢献した森氏当主として重んじられた忠政は、秀吉の弟、大和大納言豊臣秀長娘婿となり、羽柴姓を与えられるなど政権内では比較重要な位置占めた。 しかし、秀吉二度朝鮮出兵の後、幼少跡継ぎ豊臣秀頼を遺して亡くなると、天下形勢小牧・長久手の戦いの後に豊臣家臣従した徳川家康に移ることとなる。そして反徳川兵を挙げた石田三成西軍徳川家康をはじめとした東軍の間に関ヶ原の戦い勃発する。忠政は徳川方与して家康嫡男徳川秀忠部将として信濃西軍真田昌幸攻め参加する戦後徳川方として功績挙げた森忠政美作国津山藩18万石大封得て江戸幕府政権下においても外様大名ながら大大名として栄えた森家その後森忠政森長継森長武続き延宝4年1676年津山藩森家3代藩主森長武が弟森長俊勝北郡北部1万5千石分知して支藩立てた津山新田藩)。しかし、宗家次々と当主亡くなり二代藩主の長継が再び当主の座に復したものの、後継乱心理由改易されるという憂き目を見ることになる。 その後幕府より御家再興許され森氏赤穂藩2万石、三日月藩1万石で再び家名回復した。さらに森氏重臣可成時代から縁戚であった源姓関氏養子入れ所領分知し、大名取り立てた美作宮川藩後に新見藩転封)。その後森氏一門三藩断絶することなく幕末迎え西国雄藩薩長同盟成立すると、倒幕軍に加わり明治維新迎えることになる。

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