赤穂藩
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赤穂藩(あこうはん)は、播磨国赤穂郡(兵庫県赤穂市、相生市、上郡町)周辺を領有した藩。藩庁は同郡加里屋の赤穂城。
- ^ 赤穂は郡名を起源としており、城地・政庁の存在した当地の歴史的固有地名はカリヤ(加里屋・仮屋・苅屋)であった。
- ^ 国史跡赤穂城跡(兵庫県赤穂市) 公式Webサイト
- ^ 郡部12万3千石および島嶼部3千2百石(「生駒親正・一正宛豊臣秀吉朱印状」より)
- ^ 宇喜多家文書「宇喜多秀家士帳」など
- ^ 『赤穂市史』「第4節 赤穂上水道の敷設」(八木哲浩ほか、1983年)
- ^ 「妻(黒田筑前守長政女)を切殺し、をのが女(側室)に手負せ、侍女両人をも切て捨たりしかば、けふ所領を収公あり」(『徳川實紀 第三篇 第四十巻』)
- ^ 赤穂大石神社宮司・飯尾精『忠臣蔵の真相』より「浅野家の赤穂国替えは左遷だったか」13p
- ^ 谷口眞子「赤穂浪士の実像」41ページ
- ^ 時代は下るが、維新後の土佐藩の金札1両が33銭3厘、薩摩藩も32銭2厘で額面の僅か三分の一未満である(日本銀行貨幣博物館展示および公式web)。
- ^ 山本博文『「忠臣蔵」の決算書』(2012年、新潮社)など
- ^ 延宝8年の赤穂藩藩札が広島藩に残っており、浅野本家からの援助があった裏付けとなっている(「写真スライド・延宝赤穂藩札」広島市立中央図書館)
- ^ 広島藩『浅野赤穂分家済美録』
- ^ 『池田家文書』(岡山大学所蔵)
- ^ 「大石瀬左衛門書状」五十二
- ^ 1702年11月29日付け落合勝信宛て大石書状に「同志の生活は困窮」「矢頭に至っては飢渇」とまで記される。
- ^ 新田完三 1984, p. 22.
- ^ 大石無人は赤穂義士の装束等の遺品を預かっていたが、長男である良麿の子・良饒が大石瀬左衛門家を継承した事により、遺品は赤穂に戻されて現在では大石神社に納められている。
- ^ 森家文書『東西分限帳 慶応元年』
- ^ 「赤穂城下町跡発掘調査報告書」(2005年、赤穂市教育委員会)p12
- ^ 一坂太郎『暗殺の幕末維新史』(中央公論新社)
- ^ 翠城の学問の師・塩谷宕陰は昌平坂学問所の出身。
- ^ 朝日日本歴史人物事典『森主税』 - コトバンク
- ^ 赤穂市立歴史博物館「特別展示 藩儒村上氏」解説。
- ^ 新田完三 1984, p. 30.
- ^ 若狭野浅野家の分知は内分(表高を変えない分与)
- ^ 泉(1998) p.278
- ^ 山本(2012a) 第七章三節
- ^ wikipedia「浅野長広」項目も参照
- ^ 「法要で赤穂藩主・森家の遺徳偲ぶ」(赤穂民報、2013年5月19日))
- ^ 現在は佃大橋が掛かり、島の住宅地に船でなく陸路で渡れる。
- ^ 現在の聖路加大学附属病院(聖書『ルカによる福音書』と異なり、法人登記上の読みは「セイロカ」)
- ^ 『嘉永京橋南絵図』
- ^ 「芥川龍之介生誕の地」碑(明石町)があったが、平成期に別の場所に移されている。
- ^ 『北神田浜町絵図』では尚庸流永井家の「丸に梨の切り口」の家紋がある
- ^ 現在は埋め立て地の竹芝埠頭。
- ^ 内藤忠勝に刺殺された永井尚長(増上寺刃傷事件)および吉良義央や小林央通、清水義久ら吉良家臣(元禄赤穂事件)の墓もある。
- ^ 輝興の改易流罪(正保赤穂事件)で少林寺(岡山)を菩提寺に変更している。
- ^ ただし、元文4年(1739年)には花岳寺の境内に森家家臣の有志により義士墓が建立されている。
- ^ 『播州赤穂 台雲山花岳寺』より「境内案内」
- ^ 元禄十三年『赤穂浅野家侍帳』
- ^ 塩田の運上・雑穀(米以外の五穀)・新田開発分(うち3000石は浅野大学家に分与)
- ^ 『土芥寇讎記』巻二十巻・第五項(東京大学史料編纂室)
- ^ 『仮屋地区毛付』(元禄二年より同十三年)
- ^ 『赤穂城在番日記』ほか。事件は老中・阿部正武に早飛脚で伝えられた。
- ^ 兵庫県たつの市「赤穂浅野家資料」(「赤穂郡佐用郡御年貢納帳」など)。再度の散逸防止のため非公開(教育事業部歴史文化財課)
- ^ 中島康夫『大石内蔵助の生涯 真説・忠臣蔵』60p(中央義士会)
- ^ 岩国領『吉川家文書』より「平尾堅ヶ浜新田記録」
- ^ 文化13年(1816)「御在所御家中諸席」
- ^ 「赤穂城下町跡発掘調査報告書」(2005年、赤穂市教育委員会)p9
赤穂藩
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浅野内匠頭長矩 赤穂藩主。松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び即日切腹。辞世は「風さそふ花よりも猶我はまた春の名残をいかにとか(や)せん」というがこれは「多門伝八郎筆記」にあるだけで、多門の創作と考えられる。(「元禄赤穂事件」p122) 瑤泉院 浅野長矩の正室。事件後に赤穂浪士の遺児の赦免に尽くした。 浅野大学長広 浅野長矩の実弟。浅野長矩の養嗣子となる。刃傷事件後に閉門となり、後に領地召し上げ、浅野宗家へ永預けとなる。この処分を受け大石良雄は吉良殺害を決意する。 大野九郎兵衛知房 国家老650石(次席)。平時には藩札のシステムを作るなどの貢献があった。 しかし赤穂藩改易が決まると、切腹に反対するなど弱腰の姿勢を見せ、原惣右衛門が賛同できないものはこの場を去るようにと言うと、大野は10人ほどの者とともに立ち去った。 4月12日に赤穂城の明け渡しが決定すると、その日の晩に息子の郡右衛門とともに逃亡した。逃亡に際し郡右衛門の幼い娘を置き去りしていったという。 逃亡の原因は、『江赤見聞記』の巻二によると、大野が藩庫金の分配に関して岡島八十右衛門と揉め、命の危険を感じた事が原因だというが、よく分からない。 こうした経緯もあってか、忠臣蔵のドラマでは「不義士」の親玉として描かれることが多く、元禄16年に書かれた『易水連袂録』ではすでに「日本無双大臆病ノ腰抜」と描かれている。 宮澤誠一は「義士」伝説が創出される際、大野がいわば悪役としてスケープゴートにされた形だと評している。 安井彦右衛門 江戸家老650石江戸扶持9人半。勅使御馳走役となった主君浅野内匠頭の補佐に失敗する。 藤井又左衛門宗茂 家老800石。勅使御馳走役となった主君・浅野内匠頭の補佐に失敗する。 近藤源八正憲 1000石。大石良雄の縁者。義盟には参加していない。 岡林杢之助直之 組頭1000石。開城恭順派で義盟には不参加。討ち入り後、兄の孫左衛門や弟の左門ら親族に不義をなじられ、弟の介錯により12月28日に切腹した。 寺井玄渓 藩医300石5人扶持。円山会議以前から浪士たちの活動を支えており、討ち入りに参加したいという意思を持っていたが、玄渓は武士でないという理由により、内蔵助に断られている。
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赤穂藩
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承応2年(1653年)に築城中であった赤穂城の縄張りについて山鹿素行が助言したともいわれ、これにより二の丸門周辺の手直しがなされたという説があり、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている。 しかし赤穂城は、広大な不等辺多角形で、本丸が南東に偏っており、「城は小さくまろく左右対称に作るべし」「堅固を前うしろにて致す心得のこと」という山鹿流の縄張りとは大きく異なる。 また、浅野長直は赤穂に流刑時代の素行お預かりを担当している。
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