森忠賛とは? わかりやすく解説

森忠賛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/05 13:11 UTC 版)

 
森忠賛
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦10年4月12日1760年5月26日[1]
または宝暦8年(1758年[2]
死没 天保8年7月17日1837年8月17日[1]
または同年7月19日(同年8月19日[2]
改名 槙蔵(幼名)、忠賛、粘華(法号)
戒名 梅龍院殿覚源宗真大居士
墓所 東京都港区東麻布の瑠璃光寺
官位 従五位下伊予守大内記右兵衛佐美濃守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
播磨赤穂藩
氏族 森氏
父母 森忠洪、西宮氏
森忠興
兄弟 忠興忠賛、政子、森政宣室
中川久貞娘巻
堤氏、鈴木氏
忠哲忠敬長篤、青木可度、可象、
千恵、宮、米津政懿継室、森賛張室、
戸田麟平室、鏈、落合某室、
京極高聡継室、脇坂某室ら
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森 忠賛(もり ただすけ)は、播磨国赤穂藩7代藩主。赤穂藩森家13代。

略歴

宝暦10年(1760年)4月12日(または宝暦8年(1758年))、第5代藩主・森忠洪の三男として生まれる。

安永9年(1780年)4月29日、兄で第6代藩主の忠興から世子に指名され、8月6日の兄の隠居家督を継ぎ、12月18日に従五位下・伊予守に叙位・任官する。

藩政では父・兄の学問振興的な政治路線から一変し、質素倹約や塩田開発、御用金調達、「国産塩専売仕法」による塩の専売など、現実的な藩政改革を行なって財政の引き締めを行なっている。ただし学問的な素養はあったようで、俳諧の道に進んで文学の発展にも尽くしている。

享和元年(1801年)5月23日、家督を四男・忠哲に譲って隠居する。後に美濃守に遷任する。天保8年(1837年)7月17日(または7月19日)に死去した。享年78(または80)。

系譜

脚注

  1. ^ a b 森忠賛」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社https://kotobank.jp/word/%E6%A3%AE%E5%BF%A0%E8%B3%9Bコトバンクより2025年5月7日閲覧 
  2. ^ a b 『三百藩藩主人名事典 第3巻』新人物往来社、1987年、p.437。




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