森忠賛
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
生誕 | 宝暦10年4月12日(1760年5月26日)[1] または宝暦8年(1758年)[2] |
死没 | 天保8年7月17日(1837年8月17日)[1] または同年7月19日(同年8月19日)[2] |
改名 | 槙蔵(幼名)、忠賛、粘華(法号) |
戒名 | 梅龍院殿覚源宗真大居士 |
墓所 | 東京都港区東麻布の瑠璃光寺 |
官位 | 従五位下伊予守、大内記、右兵衛佐、美濃守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
藩 | 播磨赤穂藩主 |
氏族 | 森氏 |
父母 | 森忠洪、西宮氏 森忠興 |
兄弟 | 忠興、忠賛、政子、森政宣室 |
妻 | 中川久貞娘巻 堤氏、鈴木氏 |
子 | 忠哲、忠敬、長篤、青木可度、可象、 千恵、宮、米津政懿継室、森賛張室、 戸田麟平室、鏈、落合某室、 京極高聡継室、脇坂某室ら |
森 忠賛(もり ただすけ)は、播磨国赤穂藩7代藩主。赤穂藩森家13代。
略歴
宝暦10年(1760年)4月12日(または宝暦8年(1758年))、第5代藩主・森忠洪の三男として生まれる。
安永9年(1780年)4月29日、兄で第6代藩主の忠興から世子に指名され、8月6日の兄の隠居で家督を継ぎ、12月18日に従五位下・伊予守に叙位・任官する。
藩政では父・兄の学問振興的な政治路線から一変し、質素倹約や塩田開発、御用金調達、「国産塩専売仕法」による塩の専売など、現実的な藩政改革を行なって財政の引き締めを行なっている。ただし学問的な素養はあったようで、俳諧の道に進んで文学の発展にも尽くしている。
享和元年(1801年)5月23日、家督を四男・忠哲に譲って隠居する。後に美濃守に遷任する。天保8年(1837年)7月17日(または7月19日)に死去した。享年78(または80)。
系譜
脚注
固有名詞の分類
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