森長直とは? わかりやすく解説

森長直

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/07 08:00 UTC 版)

 
森長直
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文12年11月22日1673年1月9日[1]
または同年12月22日(同年2月8日[2]
死没 享保7年8月24日1722年10月4日
改名 亀之助・帯刀(幼名)、長直
戒名 鉄性院殿一峯浄空大居士
墓所 兵庫県赤穂市加里屋の花岳寺
官位 従五位下和泉守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
備中西江原藩主、播磨赤穂藩
氏族 森氏
父母 森長継、橋村氏
兄弟 忠継長武長俊関長治、長基、長直衆利、万姫、鳥居忠則正室、一条冬経室、兼、関長政養女、瑞光院、大姫、
松平康雄正室
堀親貞鯰江氏
森長孝正室、関長広婚約者、長孝
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森 長直(もり ながなお)は、備中国西江原藩第2代藩主、播磨国赤穂藩主。

略歴

寛文12年(1672年)11月22日(または12月22日)、美作津山藩第2代藩主(後に西江原藩初代藩主)森長継の八男として生まれる。父は延宝2年(1674年)に隠居し、兄の長武が跡を継いだ。長武も貞享3年(1686年)に隠居し、長武と長直の甥である長成が跡を継いだ。長直は元禄7年(1694年)に長成から1500俵を分与されている。長成は生来虚弱であったが、中野村(現東京都中野区)の犬屋敷お手伝い普請に伴う、多大な借財が原因の藩内の混乱に心労を深め元禄10年(1697年)に死去した。しかし、嗣子がなかった。

隠居の長継は長直の弟である関衆利(森衆利)を長成の継嗣として認めてもらうよう幕府に訴え、幕府もこれを承諾した。しかし、衆利が継承挨拶のため江戸に出府途中、伊勢で乱心したため、幕府は家督相続承認を取り消し、元禄10年(1697年)8月2日に領地を召し上げ、津山藩森家は改易された。

ただし、幕府は長継に与えていた隠居料である美作国内の2万石を改めて安堵することで、森家の存続を許した。こうして長継は新たに西江原藩を立藩し、長直は8月26日に世子として指名された。そして元禄11年(1698年)に父が死去すると、家督を継いで西江原藩主となった。西江原では新田開発を積極的に行った。

宝永3年(1706年)1月28日、播磨赤穂藩に同じく2万石で移封される。藩財政が早くから悪化したため、長直は今度は塩田開発に積極的に取り組んだ。享保7年(1722年)8月24日に死去した。享年51。跡を婿養子長孝が継いだ。

系譜

脚注

  1. ^ 森長直」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社https://kotobank.jp/word/%E6%A3%AE%E9%95%B7%E7%9B%B4コトバンクより2025年5月7日閲覧 
  2. ^ 『兵庫県史 史料編 近世 1』兵庫県、1989年、p.177。
先代
森長継
美濃森氏(宗家)当主
森長直
次代
森長孝




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