永井家および森家の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:13 UTC 版)
刃傷事件のあった元禄14年(1701年)に、代わって下野国烏山藩より永井直敬が3万2000石で入部する。しかし、5年後の宝永3年(1706年)には信濃国飯山藩へ転封となっている。 同年、備中国西江原藩より森長直が2万石で入部、廃藩置県までの12代165年間、赤穂藩主としては最も長く在封した。森家赤穂藩士の格式(席)は、藩主に御目見が許される士分(給人格)と徒士、御目見が出来ない下代(足軽・中間など)の大きく3つに分けられた。下代の多くは苗字を名乗れなかった。森家赤穂藩には大石氏(広島藩・浅野本家の大三郎系が絶家ののち、大石信清系が大石宗家の扱いで花岳寺にて大石氏の祭祀を継承している)など旧浅野家臣もみられる。 幕末の安政4年(1857年)に佐幕派の一門・森主税(可彝)が家老になった。文久2年(1862年)12月9日、尊皇攘夷論に傾斜を強めていた西川升吉ら中下級武士13名が、森主税を赤穂城の門前にて斬殺した。藩儒(朱子学教授)・村上真輔(天谷)も用人屋敷で殺害。その次男・河原翠城は大坂より急ぎ帰国したものの襲撃者が待ち構えており、観念して福泉寺で自害した。森主税家および村上家は断絶となった。13人は西川など7人が刑死または捕縛前に同士討ちで死亡、6人が高野山にある藩祖の墓守とされた。(「文久赤穂事件」) 1869年(明治2年)の版籍奉還で藩主森忠儀が知藩事に就任。1871年(明治4年)、廃藩置県により赤穂県となり、その後、姫路県・飾磨県を経て兵庫県に編入された。森家は1869年(明治2年)の版籍奉還とともに華族に列し、1884年(明治17年)には華族令の施行とともに子爵を授爵した。
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