永井尚知
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/15 21:53 UTC 版)
永井 尚知 | |
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生誕 |
1887年12月26日 (明治20年12月26日) 石川県金沢市笠市町 |
死没 |
1962年7月23日 東京都目黒区上目黒 |
死因 | 急性心筋梗塞 |
国籍 |
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出身校 | 石川県第一中学校 |
職業 | 柔道整復師、柔術家 |
流派 |
長尾流躰術、天神真楊流柔術 講道館柔道、神道六合流柔術 大日本武徳会柔道 一刀流 |
活動拠点 |
永武館(東京市芝区白金三光町) 永盛堂 |
配偶者 | 永井ゆき子 |
親 | 永井喜之男 |
永井 尚知(1887年12月26日 - 1962年7月23日)は、日本の武術家である。
経歴
1897年12月26日(明治20年)に旧金沢藩士永井喜之男の長男として石川県金沢市に生まれる[1]。
柔術は始め父に就いて長尾流躰術を学んだ。15歳頃から柔剣道を学び、18歳で京都の大日本武徳会に入って柔道を修行した。 20歳で上京して麻布獣医学校柔道部の教官に任命された。当時、麻布にあった帝國尚武會の野口清が旅行中不在であったため、野口の代理として師範を務めていた[2]。1909年(明治42年)から帝国尚武会より神道六合流柔術の教授書を出版している。また憲兵司令部の柔道教授も務めていた。その後、独立して東京府の下渋谷に柔道場を設けて柔道教授を行っっていたが、二年後に郷里に帰り石川県小松県立中学校に招聘され柔道教官となった。また各中学校や警察署の師範も務めていた。
小松中学校を辞してから再び上京し柔道家の恒石の代理師範をし、後に独立して東京市芝区白金三光町に永武館道場及び永盛堂(整骨院)を開設した。子弟教育の傍ら高輪中学、高輪商業、高輪警察署柔道講師として指導していた。
永井尚知が学んだ武術は長尾流躰術、大日本武徳会柔道、神道六合流の他に天神真楊流と講道館柔道(1928年時点で4段)
)、剣道は一刀流の免許を持っていた。
脚注
注釈
出典
- ^ ラヂオ協会 編『日本ラヂオ総覧』ラヂオ協会、1929年
- ^ 東京日日通信社 編『昭和大典記念 自治産業発達史』東京日日通信社、1928年
参考文献
- 永井尚知 著『帝國尚武會制定型圖解』帝國尚武會、1909年
- 永井尚知 著『甲種科教授書』帝國尚武會、1910年
- 永井尚知 著『乙種科教授書』帝國尚武會、1910年
- 永井尚知 著『丙種科教授書』帝國尚武會、1910年
- 医事時論社 編『日本医籍録』医事時論社、1925年
- 東京府市政通信社 編『東京府市自治大鑑 前,後巻』東京府市政通信社、1926年
- 東京日日通信社 編『昭和大典記念 自治産業発達史』東京日日通信社、1928年
- ラヂオ協会 編『日本ラヂオ総覧』ラヂオ協会、1929年
永井尚知
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 07:04 UTC 版)
『帝國尚武會制定型圖解』の著者。天神真楊流の柔術家。講道館柔道四段。永武館という道場を開いていた。
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