森長記とは? わかりやすく解説

森長記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/26 04:39 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
森長記
時代 江戸時代中期
生誕 貞享4年6月16日1687年7月24日
死没 明和4年5月4日1767年5月31日
別名 森の夜鷲
墓所 東京都大田区池上の本行寺
官位 従五位下安芸守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家継吉宗
播磨三日月藩
氏族 森氏
父母 森長俊:布宇
兄弟 長記関長広、光照
側室:重
可敦俊春
テンプレートを表示

森 長記(もり ながのり)は、江戸時代中期の大名播磨国三日月藩の第2代藩主官位従五位下安芸守

略歴

初代藩主・森長俊の長男として美作にて誕生。

正徳5年(1715年)7月27日、父の隠居により跡を継いだ。藩政に見るところはない。しかし性格的に面白い藩主であった。

長記は泰平の世の中では珍しいほど自由奔放に振舞う藩主であった。だからといって暗愚とか馬鹿殿だったわけではない。いわゆる藩とか体制に縛られるのが大嫌いな性格であった。そのため藩政は重臣に任せて、長記は供を連れることもほとんどせずに、まるで無頼のように山や川を駆け回っては狩猟を行って獲物を狩り、屋敷に帰還するのはいつも明朝頃だったと言われている。このため、世間からは「森の夜鷲」とまで称された。また、参勤交代の途上、箱根の関所を午前2時に無理やり通させたこともある(播陽政実録)。しかしこのように無頼な生活を遂げたことが、逆に領民などの下情に通じることにもなり、当時の諸大名の中では最も下情に通じた大名とも言われた。

元文4年(1739年)6月26日、5男・俊春に家督を譲って隠居し、明和4年(1767年)5月4日に81歳で死去した。墓所は東京都大田区池上の本行寺。

系譜

  • 父:森長俊(1649-1735)
  • 母:布宇 - 浄心院
  • 室:重 - 井波氏
  • 生母不明の子女




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「森長記」の関連用語

森長記のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



森長記のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの森長記 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS