赤穂城時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:50 UTC 版)
近世の城郭建設のため、近藤正純が1646年(正保3年)に設計図を作成[要出典]し、石材採掘にも取り掛かる。幕府に築城計画を提出した1648年(慶安元年6月17日、新暦8月5日)、同年中に城作りが始まる。赤穂藩主・浅野長直は1652年(承応元年)、山鹿素行を赤穂に招き、7ヵ月滞在した山鹿は二の丸周辺の設計を助言した。[要文献特定詳細情報] 赤穂城は1661年(寛文元年)に完成し、やがて3代浅野長矩の弟・長広に播磨国赤穂郡の新田3000石を分与、旗本の寄合に列するのは1694年(元禄7年)である。長矩が勅使饗応役に任ぜられ、1701年(元禄14年)に江戸城中で吉良義央に斬りつけて刃傷事件を起こすと浅野氏は改易となる。翌元禄15年、家臣による吉良邸討ち入りが起こった(元禄赤穂事件)。 浅野氏家臣から赤穂城を預かった隣国の播磨龍野藩主・脇坂安照もまた在番中に家老・脇坂民部の目代が刃傷事件を起こし、6月24日、赤穂城内で死傷者を出す(脇坂赤穂事件)。また、城下の町人(主に子供)が水堀で釣りをしたり、百姓たちが二の丸の蔵米を奪おうとしたり、多数の領民が暴れて建物や石垣を壊したりした。民部はこれらを取り締まると共に米合計3036俵を城から移転した。龍野に在国中の安照が幕府に城の破損状況を報告している。幕閣の命で代官が派遣され、建物壁の落書消しや石垣修復が行なわれた。そのほか城には多数の犬が居た記録が残る。 翌1702年(元禄15年)に永井直敬が3万3000石で入封した。1706年(宝永3年)に当代の直敬は信濃国飯山藩へ転封となると、森長直が備中国西江原藩より2万石で入部。この森家は廃藩置県までの12代165年間、赤穂藩主として最も長く在封することになる。 幕末に至ると藩政の改革をめぐり、1857年(安政4年)に保守派・革新派の対立が起こって藩内は分裂し、革新派の一部は脱藩して長州藩へ奔る(はしる)。 文久2年(1862年)12月9日、尊皇攘夷論に傾斜を強めていた西川升吉ら中下級武士13名が、佐幕派の一門・森主税(可彝)を赤穂城で斬殺した。藩儒(朱子学教授)・村上真輔(天谷)も城下の屋敷で殺害される。襲撃者の13人は西川など7人が刑死または捕縛前に同士討ちで死亡、6人が高野山にある藩祖の墓守とされた(文久赤穂事件)。 本丸門 塩屋門 三之丸大手門(高麗門)と二層隅櫓 潮見櫓と二之丸土塀
※この「赤穂城時代」の解説は、「赤穂城」の解説の一部です。
「赤穂城時代」を含む「赤穂城」の記事については、「赤穂城」の概要を参照ください。
- 赤穂城時代のページへのリンク