赤穂事件と創作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 05:04 UTC 版)
元禄15年(1702年)12月14日の早暁、赤穂浪士による吉良邸討ち入りが始まると、逵直は浪士たちからの申し状を聞き入れ、吉良家には加勢しないことを約束。逆に塀に沿って灯りを掲げ、その下には射手を侍らせ、堀を越えてくる者があれば誰であろうとも射て落とせと命じたという話がある。 この場面は後年、数々の講談や歌舞伎など「忠臣蔵」関連の題材に頻繁に取り入れられている。 これは、新井白石が逵直から聞き取った話を室鳩巣が書き綴った『鳩巣小説』に書かれているとされるが、信憑性に疑問が提示されている。 第一に、室鳩巣の著作には歴史的な誤りが多数あること。 第二に、『鳩巣小説』以外に記述が無く、他のものは「鳩巣小説」からの引用、もしくは「赤穂義人録」のような鳩巣自身による別の著作であること。 第三に、「土屋家文書」のような一次資料に拠るものでは無く、所謂「又聞き」であり、しかも間接的かつ利害関係にある人物からの伝聞であること。 第四に、その情報源である新井白石は、土屋氏により奉公構にされたため若年時代の白石は困窮しており、公正な第三者とは言い難いこと。 第五に、土屋家は不始末を理由に改易され、逵直の代から2万石の大名の地位を失い、3000石の旗本に転落していること。そのような立場の者が、公式には公儀が「主人の仇を報じ候と申し立て」、「徒党」を組んで吉良邸に「押し込み」を働いた」とした赤穂浪士に加担する言動をとる(もしくは後年、加担したと「遺恨が残る相手」に語る)とは考えにくいこと。 などが指摘され、三田村鳶魚は土屋逵直が事件へ関与した可能性を否定している。 そして何よりも、新井白石本人の日記に、これほど大切なことがまったく記されてないのである。
※この「赤穂事件と創作」の解説は、「土屋逵直」の解説の一部です。
「赤穂事件と創作」を含む「土屋逵直」の記事については、「土屋逵直」の概要を参照ください。
- 赤穂事件と創作のページへのリンク