若年時代
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父は汾州の司馬になった後、河東に移り住んだ王処廉。母の崔氏は敬虔な僧の普寂に師事していた仏教徒で、王維はその影響を強く受けながら成長した。名の維と字の摩詰とは、『維摩経』の主人公である居士の“維摩詰”の名を分割したものである。風姿が洗練されていて上品で、博学多芸であり、幼少から文名を挙げ、音律にすぐれ、琵琶に通じていた。9歳で辞を綴ることを知り15歳のころから都に遊学し、詩によって、開元年間からすでに盛名があり、王族や貴顕からも厚く迎えられ、さらに名声を高めた。玄宗の兄の寧王李憲や玄宗の弟の薛王李業に至っては、師や友のように彼に対していた。15歳頃に彼が作成した詩が現存している。 親孝行で兄弟とも親しみ、妻との仲も「友愛の極」であったと伝えられる。そればかりでなく、草書・隷書にすぐれ、音楽についても、音楽演奏の図を見ただけで、「霓裳羽衣の曲の第三畳最初拍」と即答したという説話に残っている。さらに、画にも多大な才能を有していた。 玄宗のもう一人の弟である岐王李範のもとにも出入りしており、「集異記」に張九齢の弟である張九皋と府試(科挙の長安で開かれる予備試験)で争い、岐王の楽人に扮して、権勢の誇っていた公主(名は不明)のもとに赴き、その容姿・琵琶の技術・詩の才・風流ぶりと諧謔を解した話術、岐王の口添えによって、府試の解頭(首席)となることができたという説話が残っている。また、「本事詩」に、寧王李憲の邸宅において、李憲が寵愛していた女性が、自分を譲り渡したかつての夫と会い、涙を流す場面で、李憲に詩作を命じられ、並み居る文人たちの中でただ一人「息夫人」の詩を詠んだという説話も記載されている。
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若年時代
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「アレキサンダー・セルカーク」の記事における「若年時代」の解説
1676年、スコットランド、ファイフのロウアー・ラルゴ村で、靴屋・製革業者の息子として生まれる。若い頃の彼は喧嘩早く乱暴で、1695年8月27日、教会における無作法な態度のかどで長老会議に召喚されたが、彼は出頭せず、逃亡して船乗りになった。 はじめ彼は南洋への海賊遠征に参加し、1703年には著名な私掠船長・探検家であるウィリアム・ダンピアの遠征に参加した。ダンピアはセント・ジョージ号の船長だったが、セルカークはその僚艦であるガレオン船シンク・ポーツ号の船長トーマス・ストラドリングのもとで航海長となった。翌年の10月、シンク・ポーツ号は、ストラドリングとダンピアのいさかいが元でセント・ジョージ号と別れた後、食料と水を補給するためファン・フェルナンデス諸島の無人島に停泊した。ここでセルカークは船の耐久性に強い懸念を抱き、船員仲間数名に、別の船が来ることを期待して島に残ることを提案した(実際、シンク・ポーツ号は後日、多くの乗組員とともに沈んだ)。しかし誰1人としてセルカークに賛同しなかった。セルカークの起こす揉め事に嫌気がさしていたストラドリングは、セルカークの望みを叶え、セルカーク1人だけを島に残すことにした。セルカークはすぐに後悔した。彼はシンク・ポーツ号を追いかけ、呼びかけたが、徒労に終わった。セルカークは4年4か月にわたり、ファン・フェルナンデス諸島で孤独に暮らすことになった。彼が持っていたのはマスケット銃、火薬、大工道具、ナイフ、聖書、それに衣服だけであった。
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若年時代(1471 - 1490)
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「アルブレヒト・デューラー」の記事における「若年時代(1471 - 1490)」の解説
デューラーは1471年5月21日に、第三子(次男)としてニュルンベルクに生まれた。14人から18人兄弟であった。父のアルブレヒト・デューラーは金細工職人として成功を修めていた。彼はジュラ(ハンガリー語版)の隣村アイトーシュ Ajtós(現在のアイトーシュファルヴァ(ハンガリー語版)(Ajtósfalva)、「扉村」の意味)の出身で、アイトーシ(Ajtósi)と名乗っていた。ハンガリーではアイトーシ・デュレル(Ajtósi Dürer)とも呼ばれる。彼は1455年にニュルンベルクに移って来た。ドイツ語名の"Dürer"は、ハンガリー語の"Ajtósi"に由来して、大元はドア職人の"Thürer"(ハンガリー語で"ajtó"はドアの意味)である。このため、家紋には扉が描かれている。アルブレヒトは自分が親方となった1467年に、彼の親方であるイエロニムス・ホルパーの娘バルバラと結婚した。 デューラーの後見人はアントン・コーベルガーで、デューラーの生まれた年に印刷家、出版家になるために金細工職人を辞めた。ほどなく彼はドイツで最も成功した出版家となり、最終的に24の出版物と、ドイツ国内に数多くの事務所を所有した。彼の最も有名な出版物は、1493年にドイツ語とラテン語版が出版された『ニュルンベルク年代記』である。そこにはミヒャエル・ヴォルゲムート(ドイツ語版)による、前例のない1809の木版のイラストが含まれていた。この計画が始まった時、デューラーはヴォルゲムートと共に、これらを手伝った。 幸運にもデューラーは自画像を多く残していて、20代中頃には大変有名になっていた。このため彼の生涯は、多くの情報源により文書化されている。2、3年学校に通った後、デューラーは父親から金細工と描写の基礎を学び始めた。父親は彼に金細工のトレーニングを続けさせたかったが、彼はヴォルゲムートの見習い時、1484年に15歳で始めた描画において、早熟な才能の片鱗をみせていた。銀筆素描で描かれた自画像は、彼が後に「子供時代」と記した1484年の作である。ヴォルゲムートは当時ニュルンベルクにおいて、様々な芸術作品を製作する巨大な作用場を有し、最先端を行く芸術家であった。ニュルンベルクは出版や高級品の貿易拠点として、重要な繁栄した都市であった。街はアルプスを縦断して比較的距離の近いイタリア、特にヴェネツィアと大きなパイプがあった。
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若年時代
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「テオドシウス・ドブジャンスキー」の記事における「若年時代」の解説
1900年1月25日ウクライナのNemyrivで、数学教師の父グリゴリー・ドブジャンスキーと、母Sophia Voinarskyとの間に生まれた一人っ子である。一家は1910年にキエフに移った。高校時代に蝶の蒐集に興じ、生物学者になることを決意する。1915年、Victor Luchnikに出会ったことで甲虫を専門にするようになる。1917年から1921年までキエフ大学に在籍し、そのまま1924年まで通う。その後、キイロショウジョウバエの研究室を立ち上げたレニングラードのYuri Filipchenkoに師事した。 1924年8月8日、キエフのイワン・シュマールハウゼンの所で研究していた遺伝学者Natalia "Natasha" Sivertzevaと結婚する。彼女との間にはソフィという一人娘があり、のちに人類学者のマイケル・コウに嫁いだ。 この頃はウクライナやロシア帝国は社会的大激動期にあった。第一次大戦のあと、ロシア革命と内戦が相次いで起こり、ソビエト連邦の構成国であるウクライナ社会主義ソビエト共和国が成立した。
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若年時代
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生まれた年の1930年はW杯の第1回大会が開催された年でもあった。 実家は広島の老舗電気工事業・長沼電業社。祖父の長沼鷺蔵は賀茂郡御園宇村(現・東広島市)出身の広島藩士で、戊辰戦争の際に結成された「神機隊」の参謀。明治維新後、廣島県警察部に奉職し刑事係を務めた後、数々の事業を起こしその一つが長沼電業社であり、のち広島有数の実業家となり、広島市議会議員などの要職を務めた。父親、実兄もサッカー選手。広島は野球が非常に盛んな地域であるが、進学した旧制広島高等師範学校附属小学校(現・広島大学附属小学校)には野球班(部)がなく、小学校時から自然にサッカーを始めた。 1945年15歳の夏、原爆投下の日には広島市内中心部にあった学校での防空当番が前夜にあり、当日7時までいて、その後8キロ西北の疎開先、現在広島ビッグアーチがある付近・沼田(現・安佐南区沼田)まで自転車で帰る途中、家に着く直前被爆した。ちょうど山蔭に入ってところで一命をとりとめた。30分帰りが遅かったら直下だった。1週間後、帰ってこない村人の捜索のため市内に入り地獄絵を見る。「あんなにたくさんの死体をいっぺんに見た人は世界にもそんなにいないと思いますよ。それも誰が誰だか分からないんだから」と話していた。多くの知人・級友を亡くし、自らも亡くなるまで白血球過多で苦しんでいた。その為、被爆者手帳を持っていた。後年、海外遠征すると「お前のネイティブタウンはどこだ」と聞かれ「広島です」と答えると、みんな原爆のことは知っていて、「お前は何で生きてるんだ」と驚かれた。外国では広島市民は全員死んだという認識であったという。
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若年時代
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オハイオ州イーストカントンで生まれる。3歳でゴルフを始めた。父親ビル・パウエルは米国内において自分でゴルフ場を建設し、これを経営した初めての黒人であり、レニーのために子供用のクラブを自作し、打ち方も教えた。幼年期には特筆すべき出来事はさほどなく、普通の子供同様アーチェリー、バレエ、バスケットボールなどの様々なスポーツで遊んでいた。トラクターを運転して父親のゴルフコースのメンテナンスも手伝った。 12歳の時初めてアマチュアのゴルフ大会に出場し、クラス優勝した。3年後の1960年には30以上のユース大会に優勝していた。1961年までに優勝数は50を超え、毎日父親のゴルフ場でプレーしていた。グレートレイクスバンタムゴルフトーナメント (Great Lakes Bantam Golf Tournament)、コロンビアーナ郡オープン (Columbiana County Open)、クリアビューゴルフクラブジュニア (Clearview Golf Club junior)、シックススシティーレディース(Sixth City Ladies、3回)、タイヤタウンオープンレディース(Tiretown Open Ladies、2回)、ビークルシティーターニー (Vehicle City tourney)、そしてミッドウェストディストリクトジュニア(Midwest District Junior、3連続)などに優勝した。アクロンビーコンジャーナル (Akron Beacon Journal) は彼女を「バンタムゴルフショーの女王 (Queen of the Bantam Golf Show)」と呼んだ。1962年には全米女子ジュニア選手権に黒人として初めて出場した。この大会のマッチプレー1回戦で優勝候補のアン・ベーカースを破る番狂わせを演じた。1963年、アクロンタイヤタウンオープン (Akron Tire Town open) で3回目の優勝を果たし、1963年の全米女子ジュニアに再び出場した。1964年夏、ライルシボレー女子ゴルフトーナメント (Lyle Chevrolet women's golf tournament) というサドンデス方式の大会で優勝。1964年のUGA(United Golf Association、黒人のゴルフ統括団体)ナショナルオープンの優勝候補とみなされ、実際ローアマチュアタイトルを獲得した。 1964年にセントラルカトリックハイスクール (Central Catholic High School) を卒業し、オハイオ大学 (Ohio University, OU) に入学、その後オハイオ州立大学 (Ohio State University, OSU)に編入した。OU では言語療法と聴覚療法を専攻したが、OSU では社会学に変えた。いずれの大学でも女子ゴルフ部のキャプテンを務め、OSU では全米で名の通った大学ゴルフ部のなかでは黒人初のキャプテンとして皆を統率した。彼女がオハイオ州ゴルフ協会のトーナメントに出場したい意向を示した際、OSU は彼女を全面的にバックアップし、パウエルがプレーすることを許されなかったら OSU はゴルフ協会を脱退する、と声明発表まで行った。
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若年時代
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「フランクリン・グラハム」の記事における「若年時代」の解説
13歳の時にはニューヨーク州ロングアイランドのキリスト教系寄宿学校ストーニー・ブルック・スクールに入学したものの、都会のエリート校になじめなかったフランクリンは1970年に中退し、田舎のノースカロライナ州でオーエン高校を卒業。 18歳の時にビリー・グラハム伝道協会のロイ・ガスタフソンが責任をもっていた中東ツアーでアルバイトをする。そこで宣教師の影響を受けたフランクリンは伝道協会の援助で砂漠用のランド・ローバーを手に入れ、ヨルダンに運んだ。そこでアイリーンとエレノアが祈りで問題を解決しているのを目の当たりにする。1971年のクリスマスの前にヨルダンから米国に帰国する。 ルトゥルノー・カレッジに復学したものの、1972年の5月に小型飛行機をレンタルし、クラスメイトの女性とアトランタに行くが、嵐をさけてルイジアナに泊まったことで退学処分を受ける。しかし高等教育を受ける努力を続け、モントリート・アンダーソン・カレッジおよびアパラチア州立大学を卒業したことで、両親に喜ばれた。
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若年時代
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「カミール・シャムーン」の記事における「若年時代」の解説
シャムーンは、1900年4月3日に、デイル・エル=カマールでキリスト教マロン派(マロン典礼カトリック教会)の家庭に生まれた。フランスへ留学し、弁護士となった。1934年の議会選挙で初めて、国会議員に選出され、1937年、1943年と再選された。 1943年11月11日、レバノンがフランスからの独立を企図した際には、ビシャーラ・アル=フーリーと同様に、11日間の投獄生活を余儀なくされたが、レバノン国民の抗議により、レバノンの独立が達成されると同時に、釈放された。 1947年、1951年にも、国会議員に再選されると同時に、1944年から1946年には駐英レバノン大使、その後には、国連大使にも任命された。
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