若年時代の事跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 05:48 UTC 版)
姓名閻柔 時代後漢時代~三国時代・魏 生没年〔不詳〕 字・別号〔不詳〕 本貫・出身地等幽州広陽郡 職官烏桓司馬→(護)烏桓校尉→度遼将軍 爵位・号等関内侯→県侯 陣営・所属等〔独立勢力〕→袁紹→曹操→曹丕 家族・一族弟:閻志 若い頃、烏桓や鮮卑などの北方民族に捕らわれたことがある。しかし、閻柔は不思議と魅力がある人物であったのか、逆に彼ら異民族とその経緯から親密になった。その後、時期は不明だが、閻柔は鮮卑族の力を借りて烏桓校尉の邢挙を殺害し、その位を奪っている。 初平4年(193年)、劉虞が公孫瓚に殺されてしまう。劉虞軍の鮮于輔らは復仇を謀り、閻柔を烏桓司馬として擁立した。閻柔は人脈を活かして、漢民族・北方民族合わせて数万の軍勢を集めたという。閻柔・鮮于輔は公孫瓚軍の鄒丹を攻撃し、これを破り斬った。その後も河北を支配していた袁紹と共同して、ついに建安4年(199年)公孫瓚を滅ぼした。 また、恐らくはこの時の共同行動がきっかけで、袁紹との関係が密接となっている。閻柔は上谷郡の寧城を拠点として、袁紹のために異民族との交渉などにあたった。
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