後漢時代とは? わかりやすく解説

後漢時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/05 07:23 UTC 版)

伊吾」の記事における「後漢時代」の解説

永平16年73年)、明帝在位57年 - 75年)は北匈奴征伐して伊吾盧の地を取り、宜禾都尉置いて屯田させた。しかし、永平18年75年)に明帝崩御すると、それに乗じて西域諸国一斉蜂起したため、後漢建初2年77年)に屯田をやめて伊吾放棄し代わりにまた北匈奴伊吾の地を占拠することとなる。 和帝永元元年89年)、大将軍竇憲北匈奴大破永元2年90年)、竇憲は副校尉の閻槃に2千騎余り率いさせて伊吾奪い返させた。 元興元年105年)、和帝崩御すると、西域はまた反乱起こした安帝永初元年107年になって頻繁に西域都護の任尚,段禧らを攻囲するので、朝廷はその険遠をもって西域都護廃止した北匈奴はふたたび諸国服属させて10余年間共に辺寇をなした。敦煌太守の曹宗はその暴害を患ったため、元初6年119年)、安帝行長史の索班を遣わし千人余り伊吾駐屯させてこれを招撫し反乱鎮めた永建6年131年)、順帝永元時のようにまた伊吾屯田開設し伊吾司馬1人置いた桓帝元嘉元年151年)、北匈奴の呼衍王が3千騎余り率いて伊吾を寇したため伊吾司馬の毛愷は吏兵500人を類海の東に派遣して呼衍王と戦わせたが、ほとんどが戦死した。勝ちに乗った呼衍王は伊吾屯城を攻める。夏、敦煌太守司馬達は敦煌酒泉張掖属国の吏士4千人余り率い伊吾を救うべく出塞して類海に至ったが、それに気づいた呼衍王が立ち去ったため、漢軍は無功還ることとなった。 やがて後漢末期の動乱いわゆる三国時代)が始まると、後漢西域運営することができなくなったため、伊吾始め西域放棄することとなった

※この「後漢時代」の解説は、「伊吾」の解説の一部です。
「後漢時代」を含む「伊吾」の記事については、「伊吾」の概要を参照ください。

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