後漢時代
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永平16年(73年)、明帝(在位:57年 - 75年)は北匈奴を征伐して伊吾盧の地を取り、宜禾都尉を置いて屯田させた。しかし、永平18年(75年)に明帝が崩御すると、それに乗じて西域諸国が一斉蜂起したため、後漢は建初2年(77年)に屯田をやめて伊吾を放棄し、代わりにまた北匈奴が伊吾の地を占拠することとなる。 和帝の永元元年(89年)、大将軍の竇憲は北匈奴を大破。永元2年(90年)、竇憲は副校尉の閻槃に2千騎余りを率いさせて伊吾を奪い返させた。 元興元年(105年)、和帝が崩御すると、西域はまた反乱を起こした。安帝の永初元年(107年)になっても頻繁に西域都護の任尚,段禧らを攻囲するので、朝廷はその険遠をもって西域都護を廃止した。北匈奴はふたたび諸国を服属させて10余年間共に辺寇をなした。敦煌太守の曹宗はその暴害を患ったため、元初6年(119年)、安帝は行長史の索班を遣わし、千人余りで伊吾に駐屯させてこれを招撫し、反乱を鎮めた。 永建6年(131年)、順帝は永元の時のようにまた伊吾で屯田を開設し、伊吾司馬1人を置いた。 桓帝の元嘉元年(151年)、北匈奴の呼衍王が3千騎余りを率いて伊吾を寇したため、伊吾司馬の毛愷は吏兵500人を蒲類海の東に派遣して呼衍王と戦わせたが、ほとんどが戦死した。勝ちに乗った呼衍王は伊吾屯城を攻める。夏、敦煌太守の司馬達は敦煌,酒泉,張掖属国の吏士4千人余りを率い、伊吾を救うべく出塞して蒲類海に至ったが、それに気づいた呼衍王が立ち去ったため、漢軍は無功で還ることとなった。 やがて後漢末期の動乱(いわゆる三国時代)が始まると、後漢は西域を運営することができなくなったため、伊吾を始め西域を放棄することとなった。
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