後漢の滅亡とは? わかりやすく解説

後漢の滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 16:39 UTC 版)

献帝 (漢)」の記事における「後漢の滅亡」の解説

建安25年220年)、曹操死去し、子の曹丕魏王を襲位。曹丕とそれを支持する朝臣圧力で、同年の内に献帝皇帝の位を譲る事を余儀なくされ、ここに後漢滅亡した。この時に用いられ譲位形式禅譲呼ばれ後世において王朝交代が行われる時の手本となった皇后である曹節は、漢室への忠義として皇后玉璽手放すことを拒み続けたが「とは言え、私があくまで拒めば、兄は陛下や私に容赦しないでしょう」と嘆息して使者激しく詰り「天に祝福されないのか」と嘆き玉璽放り投げ涙を流したその場居た者は皆顔を上げられなかったといわれる劉協曹丕(魏の文帝)から山陽公に封じられ皇帝という身分失って皇帝だけが使える一人称「朕」を使う事を許されるなど、様々な面で厚遇受けたまた、劉氏皇子で王に封じられていた者は、皆降格し列侯となった益州逃れて曹操への抵抗続けていた劉備は、劉氏末裔であることから曹操魏王対抗するため漢中王を名乗っていたが、献帝殺されたという誤報伝えられると、漢室後継者として皇帝称した上で蜀漢)、献帝に対して独自に孝愍皇帝の諡を贈ったまた、揚州中心に勢力保っていた孫権も後に呉国皇帝称し大陸が魏・呉・蜀漢とで三分される三国時代突入したその後劉協山陽夫人となった曹節と共に暮らし青龍2年234年3月54歳死去した。魏は孝献皇帝と諡した。

※この「後漢の滅亡」の解説は、「献帝 (漢)」の解説の一部です。
「後漢の滅亡」を含む「献帝 (漢)」の記事については、「献帝 (漢)」の概要を参照ください。

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