後漢の時代(賢の登場)
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光武帝の初め、康は傍国を率いて匈奴を防いだ。建武5年(29年)、河西大将軍の竇融は、康を漢莎車建功懐徳王・西域大都尉とし、55国を服属させた。 建武9年(33年)、康が死に、宣成王と諡された。代わって弟の賢が立ち、拘弥国と西夜国を攻撃してその王を殺し、康の2人の子を立ててそれぞれ拘弥王・西夜王とした。 建武14年(38年)、賢は鄯善王の安と後漢に朝貢し、西域と漢はふたたび国交を結んだ。葱嶺以東の諸国は皆賢に服属した。 建武17年(41年)、賢はふたたび漢に朝貢し、以前のように西域都護を置くよう請うた。そこで、光武帝は賢に西域都護の印綬を賜わったが、敦煌太守の裴遵は「夷狄に大権を仮すべきではありません」と上書し、詔書で西域都護の印綬を返還させ、賢には漢大将軍の印綬を賜わった。しかし、裴遵はこれを迫奪したため、賢は漢を恨むようになった。そして、賢は大都護と詐称し、西域諸国を服属させ、さらに単于と号した。賢は周辺国に重税を課し、亀茲諸国を何度か攻撃したので、諸国は賢を恐れた。 建武21年(45年)冬、車師前王・鄯善・焉耆等18国は共に侍子を送り、珍宝を献じて、西域都護を置くよう懇願した。光武帝は中国を平定したばかりで、北辺はまだ服従していなかったので、送られてきた侍子を還し、厚く賞を賜うだけにとどめた。この時の賢は自分の兵が強いことを自負し、西域諸国をすべて併合すべく、攻撃を増していった。 建武22年(46年)、賢は西域都護が派遣されないのを知ると、鄯善王の安に漢道の絶通を命令した。安はその命令を無視して賢の使者を殺した。賢は大いに怒り、兵を発して鄯善を攻撃した。安は迎撃したが敗北し、山中に逃げ込んだ。賢は千余人を殺略して退去した。その冬、賢はふたたび亀茲王を攻め殺し、遂に亀茲国を併合した。鄯善・焉耆諸国の侍子は久しく敦煌に留まっており、鄯善王は上書し、ふたたび遣子入侍と、西域都護の派遣を請願した。しかし、それでも西域都護は派遣されないので、今度は匈奴に救いを求め、鄯善と車師はふたたび匈奴に附くこととなった。 嬀塞王が賢の使者を殺したので、賢はこれを撃ち滅ぼし、その国の貴人である駟鞬を立てて嬀塞王とした。さらに賢はその子の則羅を立てて亀茲王とした。賢は則羅が年少なので、亀茲から分けて烏塁国とし、駟鞬を烏塁王に移し、別の貴人を立てて嬀塞王とした。数年して、亀茲国人は共に則羅と駟鞬を殺し、匈奴に遣使を送って立王を請願した。匈奴は亀茲貴人の身毒を立てて亀茲王とし、亀茲はこれによって匈奴に服属した。 賢は大宛の貢税が滅少したので、自ら諸国兵数万人を率いて大宛を攻撃、大宛王の延留は迎降したので、賢は国に還り、拘弥王の橋塞提を移して大宛王とした。しかし、康居が数度これを攻めたので、橋塞提は在位数年で大宛王を退位し、ふたたび拘弥王に戻り、賢は延留を遣わして大宛に戻した。賢はまた于窴王の兪林を移して驪帰王とし、その弟の位侍を立てて于窴王とした。数年後、賢は西域諸国の造反を疑い、于窴王の位侍・拘弥王の橋塞提・姑墨王・子合王を招いて殺し、王を置かなくなった。位侍の子の戎は漢に亡命し、守節侯に封ぜられた。 永平3年(60年)、于窴の将の休莫覇は莎車に叛き、自ら立って于窴王となる。そこで賢は太子と国相を遣わし、諸国兵2万人で休莫覇を撃った。休莫覇は迎撃し、莎車兵を敗走させ、万余人を殺した。賢はふたたび諸国兵数万を発し、休莫覇を撃った。休莫覇はふたたびこれを破り、過半数を斬殺し、賢は単身で帰国。休莫覇の軍は進んで莎車を包囲したが、流れ矢にあたって死んだので、兵は撤退した。 于窴国相の蘇楡勒らは共に休莫覇の兄の子の広徳を立てて王とした。匈奴は亀茲諸国と共に莎車を攻撃し、広徳は弟の輔国侯の仁を派遣して賢を攻めた。賢は遣使を送って広徳と和睦し、広徳は兵を引いた。明年、莎車相の且運らは賢の驕暴を患い、密かに謀反を起こして于窴に降った。于窴王の広徳は諸国の兵3万人を率いて莎車を攻撃。賢は城を守っていたが、広徳の挑発に乗り、出てきたところを捕えられた。于窴は莎車を併合し、賢は数年後に殺された。
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