後渤海主要年表とは? わかりやすく解説

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後渤海主要年表

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 05:56 UTC 版)

後渤海」の記事における「後渤海主要年表」の解説

従来考えられてきた後渤海像は、おおよそ次の通りである。 926年契丹(遼)が渤海国滅ぼし渤海王大諲譔捕虜となった契丹は旧渤海領に「東丹国」を設置し皇帝長子耶律突欲耶律倍)をその国王任命した。しかし各地渤海勢力により反乱平定しきれず、やむなく大諲譔以下の捕囚率いて凱旋したが、その帰路太祖耶律阿保機崩御耶律倍太祖遺骸とともに本国引き上げた耶律阿保機崩御により渤海人自立運動活性化、その中心となったのは大諲譔の弟(氏名不詳)であり、旧首都を含む北方の地を勢力圏とした。大光顕大諲譔世子)もまた契丹帰順せず、契丹影響力少なかった渤海国西南部での活動続けた928年契丹(遼)は、東丹国遼陽移し渤海遺民移住行った多く渤海人はここを中心に留まり、独自の唐風文化を保つことになるが、一部渤海人金神及び60戸・大儒範・隠継宗ら)はこの年高麗移住している。東丹国後退入れ違いすぐさま王弟大某(在位928 − ?)が忽汗城(=龍泉府)に入り渤海国復興宣言後渤海復興))、大光顕緑府を中心に独立し勢力南海府(咸鏡道)まで回復した929年渤海国日本裴璆を、後唐に高成詞・成文角を遣使入貢支援求めた930年本国帰国中の耶律倍政争結果後唐亡命契丹(遼)は東丹国廃止して渤海領を一時放棄した渤海(復興)による東丹国併合)。同年大光顕は、王弟大某より独立している。 931年渤海国による後唐への入貢記録される934年王弟大某は、南海府の烈氏(旧渤海大臣一族)と協力し大光顕勢力駆逐した大光顕政権情勢不利のまま滅亡部民数万率い高麗投降陳林ら及び160余人後を追う935年渤海国(=後渤海)が後唐に遣使入貢する。 936年、かつて大光顕駆逐した烈万華南海府から緑府に移る。 937年長白山噴火後渤海国打撃与える。 938年烈万華在位936年頃 − 976年979年頃)、後渤海から独立、「定安国」を建国する。 946年 - 947年長白山噴火2度目)、後渤海国打撃与え954年頃?、渤海の酋豪・崔烏斯ら30名が後周帰順この後渤海の名称は史料から消滅し定安国による政権継承が行われた。

※この「後渤海主要年表」の解説は、「後渤海」の解説の一部です。
「後渤海主要年表」を含む「後渤海」の記事については、「後渤海」の概要を参照ください。

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