後漢の『尚書』受容
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後漢においては、「今文尚書」の三家は変わらず学官に立てられ、博士の間で授受された。そのため、代々欧陽氏の学を受けた桓栄・桓郁や鮑永・鮑昱(中国語版)のほか、数多くの学者が「今文尚書」を学んだ。 一方、「古文尚書」も徐々に普及し、学者の間で用いられるようになった。前漢と同様、その授受関係ははっきりしておらず、以下の二つの系統がある: 徐惲・劉歆門徒の壁中古文本 徐惲が桑欽・賈徽に「古文尚書」を伝え、賈徽が賈逵に伝えると、賈逵は章帝の勅令で『欧陽大小夏侯尚書古文同異』(欧陽氏・大小夏侯氏の「今文尚書」と「古文尚書」の異同を記録した書)を作った(『後漢書』賈逵伝)。また、鄭興・鄭衆も古文を治めたが、この学は劉歆に淵源する(『後漢書』鄭興伝)。以下、彼らの学は馬融・鄭玄らに受け継がれた。 杜林漆書古文本 杜林は西州にて漆で書かれた「古文尚書」を得た。この本は古文で書かれてはいたが、篇は「今文尚書」と同じ部分しか残っていなかった。杜林本には、衛宏が『古文尚書訓旨』を、徐巡が『古文尚書音』を、賈逵が『古文尚書訓』を、馬融が『古文尚書伝』を、盧植が『尚書章句』を、鄭玄が『古文尚書注』を作った(『後漢書』杜林伝)。 杜林漆書古文本は「今文尚書」と同じ篇しかなく、実際に馬融・鄭玄が作った注釈は「今文尚書」と同じ篇に対してのみ附されている。ここから、杜林本は実際には孔安国に由来する「古文尚書」そのものではなく、伏生以来の「今文尚書」を古文の字体によって書き直したものではないか、という説もある。 後漢になり、経学がますます盛んになると、今文を主として研究する博士を中心とする学者と、古文を主として研究する民間を中心とする学者に分かれた。それぞれを今文学・古文学と呼ぶ。今文・古文は、もとは字体の差異によるものであるが、学説にも大きな差異が生じるようになった。今文・古文の対立は『詩経』『春秋』などにも存在するが、「今文尚書」と「古文尚書」の対立はその象徴的なものである。こうした学説の分岐を受けて、章帝の建初4年(79年)には、白虎観会議が開催され、白虎通義が編纂されて経義の統一が図られた。また、許慎といった学者は、古文学の立場から『五経異議』を著し、今文説・古文説の学説の相違を整理した。 結局、後漢の末期には馬融・鄭玄らの学問が盛んになり、徐々に古文学が発展した。ただし、孔安国由来の逸書16篇を含んだ「古文尚書」は、いつの間にか伝来を絶ち、西晋の永嘉の乱の頃に失われてしまった。
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