盧植
字は子幹。涿郡涿の人。 盧植は身長八尺二寸、鐘のような声色だった。剛毅にして雄大なる節義の持ち主で、つねづね世を救済せんとの志を抱き、韻文の技術は好まず、一石もの酒を呑むことができた。 若くして鄭玄とともに馬融に師事、古今の学問に精通し、精密な研究は好んだが字句をもてあそぶようなことはしなかった。馬融は外戚の豪族であり、女たちを並ばせて眼前で歌や舞をさせることが多く、盧植は何年ものあいだ師範役を務めたが、一度も振り返ることはなかった。馬融はそのことから彼を尊重した。学業を終えて帰郷すると、古里で教育を行った。 皇后の父である大将軍竇武が霊帝を擁立し、政治の中枢に携わると、朝廷では封爵を追加しようと議論された。盧植は布衣の身ながら、手紙を送って諫めた。「あなたは漢朝において周の旦・奭のような立場であり、天下の注目するところです。いま系図を調べて下位の者(霊帝)を立てられましたが、それは天の仕事を横取りして自分の手柄にするものです!外部に跡継ぎを求めるとは危険なことですぞ。」しかし竇武は受け入れられなかった。 州郡から何度かの(出仕の)命令が届いたが、盧植はどれにも応えなかった。建寧年間(一六八~一七二)、中央から博士に徴し出されると、初めて出仕した。熹平四年(一七五)、九江郡の蛮民が反乱を起こした。盧植は文武の才能を兼ね備えておりますとの四府(三公と大将軍の役所)の推薦を受け、九江太守を拝命すると、蛮民どもは服従した。病気を口実に退職した。 『尚書章句』『三礼解詁』を著述した。そのころ太学に石経が立てられることになり、五経の校正が求められた。盧植はそこで上書した。「臣は馬融から古学を学び、現在の『礼記』に回りくどさが多いのを熟知しております。また『周礼』などが誤謬に基づいているので、浅学ながら『解詁』を作成いたしました。願わくば書生二人を連れて東観へ行き、官費でもって経典の校正を行いたく存じます。」 南方の異民族が反乱を起こすと、盧植がかつて九江で恩徳信義を示していたことから廬江太守を拝命した。盧植は政治に精通しており、職務上は静粛さを心がけ、大ざっぱな方針を宣言するだけであった。 一年余りしてまた議郎に徴し出され、諫議大夫馬日磾・議郎蔡邕・楊彪・韓説らとともに東観へ入り、秘蔵の五経や紀伝を校正し、『漢記』の続きを書いた。急ぎの仕事ではないことから、帝は侍中に転任させたあと、尚書に昇進させた。 光和元年(一七八)に日蝕があり、盧植は上書して諫めた。「漢は火徳であり、女色に溺れて讒言を信ずるのは、火が水をかぶるほど危険なことです。今年の異変はみな陽気が陰気に蝕まれたせいであります。一、良き人物を任用すること。二、党錮の禁を解除すること。三、疫病を防ぐこと。四、侵略に備えること。五、礼儀を慎むこと。六、堯帝の人事制度を採用すること。七、部下を監督すること。八、私利私益を捨てること。以上、八つの務めを陳情いたします。」帝は反省できなかった。 中平元年(一八四)、黄巾賊が蜂起した。四府の推挙により盧植は北中郎将・持節を拝命し、護烏桓中郎将宗員を副官とし、北軍五校の兵士を率い、諸郡の郡兵を動員して出征した。度重なる戦いで賊の総帥張角を破り、斬首・捕虜は一万人を越えた。張角らが敗走して広宗に楯籠ると、盧植は包囲陣を築いて雲梯を建造し、今にも陥落しそうな状況であった。 そこへ帝の派遣した小黄門左豊が両軍の形勢を視察しにきた。ある人が左豊に賄賂をお渡しなさいと勧めたが、盧植は承知しなかった。左豊は帰国すると「広宗の賊は容易に打ち破れるのに、盧中郎将は陣を固めて軍を休め、天罰が下るのを待っているかのようです」と帝に言上した。帝は腹を立て、檻車を送り付けて盧植を徴し返した。ただ罪一等を減じられて死刑だけは免れた。 車騎将軍皇甫嵩は黄巾賊を平定したあと、「盧植の行軍は軍略にかなったものであり、私どもは彼の計画を元にして手柄を立てられたのです」と絶賛した。そのおかげで盧植はその年のうちに尚書へ復帰できた。 霊帝が崩御したのち、大将軍何進は宦官を誅殺するため、幷州牧董卓を召し寄せて太后を脅迫しようと企てた。董卓は凶悪であり操縦することは難しく、必ずやのちのち問題を起こすであろうと考え、盧植は断固として諫めたが、何進は聞き入れなかった。結局、董卓は到着すると朝廷を混乱させたのであった。 董卓が百官を集めて帝の廃立を提案したとき、官僚たちは反論できなかったが、ただ盧植だけは同調せずに抗議した。董卓は腹を立てて会議を中止し、盧植を殺そうとした。盧植はもともと蔡邕と親しく、かつて蔡邕が朔方郡に流されたときも盧植だけが減免を請願していた。蔡邕はこのとき董卓に信頼されていたので、(董卓の元へ)出かけて盧植の赦免を願いでた。また議郎の彭伯も「盧尚書は海内の大儒であり、人々の希望の星です。いま殺せば天下を恐怖させるだけです」と諫めたので、董卓は盧植の殺害をやめて免官するだけにした。 盧植は老いと病気を訴えて帰郷を求めたが、暗殺を恐れ、道を変えて轘轅から脱出した。案の定、董卓は追っ手を差し向けたが、懐まで行っても見付けられなかった。盧植はそのまま上谷に潜伏し、他人と交流しなかった。冀州牧袁紹が招聘して軍師とした。 初平三年(一九二)、卒去した。臨終のとき、息子に「地面に穴を掘って埋葬せよ、棺は使うな、副葬品は一反の絹だけでよい」と遺言した。著作した碑、誄、表、記は合わせて六篇あった。 【参照】袁紹 / 何進 / 何太后 / 韓説 / 堯 / 皇甫嵩 / 左豊 / 蔡邕 / 周公旦(旦) / 召公奭(奭) / 宗員 / 張角 / 鄭玄 / 董卓 / 竇武 / 馬日磾 / 馬融 / 彭伯 / 楊彪 / 劉宏(霊帝) / 懐県 / 漢 / 轘轅 / 冀州 / 九江郡 / 広宗県 / 朔方郡 / 周 / 上谷郡 / 涿県 / 涿郡 / 幷州 / 廬江郡 / 諫議大夫 / 議郎 / 軍師 / 護烏桓中郎将 / 持節 / 侍中 / 車騎将軍 / 小黄門 / 尚書 / 太守 / 大将軍 / 博士 / 牧 / 北中郎将 / 漢記 / 三礼解詁 / 周礼 / 尚書章句 / 礼記 / 雲梯 / 檻車 / 熹平石経 / 今学 / 黄巾賊 / 古学 / 五経 / 太学 / 東観 / 党錮 / 府 / 北軍五校 |
盧植
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/12 19:56 UTC 版)
盧植 | |
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後漢 北中郎将・尚書 |
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出生 | 生年不詳 幽州涿郡涿県(河北省保定市涿州市) |
死去 | 初平3年(192年) |
拼音 | Lú Zhí |
字 | 子幹 |
主君 | 霊帝→少帝弁→袁紹 |
盧 植(ろ しょく、? - 192年)は、中国後漢末期の政治家・将軍・学者。字は子幹。子は盧毓ほか、少なくとも3人。幽州涿郡涿県(現在の河北省保定市涿州市)の人。『後漢書』に伝がある。また、『三国志』魏志「盧毓伝」が引く『続漢書』にも記述がある。
後漢の末期に文武の才能を見込まれ立身した。黄巾の乱の追討に功績を挙げた将軍の一人である。儒学者としては『礼記』の注釈者としても知られる。三国時代の蜀漢を興した劉備の師でもある。
生涯
身長は8尺2寸(約195cm)で、声は鐘のように大きくよく響いたと伝わる。
若い頃に、鄭玄とともに馬融に師事して儒学を学び、古今の学問に通じた。馬融は外戚出身の豪族の出であったため、よく多くの女人を侍らせ歌舞を楽しみながら講義をしていたが、盧植がそれに目もくれなかったため、馬融は盧植に敬意を持った。古今の書に通じ、博学で節義も高かった事から人望が厚く、剛毅で節度のある性格であり、常に世の中を救いたいという志を持っていた。辞賦は好まず、酒は一石程嗜んだ。
桓帝の没後、皇后の父である竇武が霊帝を擁立し朝政を見るようになると、封爵を与えようとする意見があった。盧植はこれを諌めたが、竇武には聞き入れられなかった。
盧植には州郡からの仕官の誘いがあったが、それをすべて辞退した。建寧年間の中期に博士となった。熹平4年(175年)に九江蛮が反乱を起こすと、文武の才能がある人物として四府から推薦され、盧植が九江太守に任命された。蛮族が降服すると、盧植は病のため官職を去った。
盧植は故郷の幽州涿郡に戻り、『尚書章句』や『礼記解詁』といった著作を著した。また学舎を主宰し、劉備や公孫瓚と高誘といった近隣の子弟に学問を教えている(『三国志』蜀志「先主伝」・魏志「公孫瓚伝」など)。
太学石経を始めて立て、五経を正す事となった時、上書して儒学者としての意見を述べた。
会南夷が反乱を起こすと、かつての九江太守であった時の恩信を買われ、廬江太守に任命された。
数年して復職し議郎に任命された。東観で馬日磾・蔡邕・楊彪・韓説らとともに、五経の校訂や漢紀の編纂にも携わった。
後に侍中となり尚書に移った。光和元年(178年)、日食があったため上書して政治を正すよう意見を述べた。しかし霊帝はこれに従わなかった。
中平元年(184年)、黄巾の乱が起きると、盧植は再び四府からの推挙を受け、北中郎将に任命され、節を持つ事を許された。護烏桓中郎将の宗員を副将とし、北軍五校士の将軍とされて天下諸郡の兵を集め、反乱軍の指導者である張角の討伐に向かった。盧植は張角の軍を大いに破って万余人を斬る功績を立てた。張角が広宗に敗走したが、盧植はこれを包囲し雲梯を使って攻め立てた。丁度、霊帝が左豊を軍の監察の使者として派遣して来た。左豊は盧植に賄賂を要求したが、盧植がこれを断ったため、左豊は霊帝に「盧植は戦おうとしない」と讒言した。盧植は怒った霊帝から罪人に落とされ、死一等を免じた上で官職を剥奪されて、収監される事となった。
後に皇甫嵩が黄巾を平定したが、皇甫嵩が盧植の功績を大いに称えたため、盧植は許され再び尚書に任命された。
光熹元年(189年)、何進は宦官皆殺しに反対する何太后に圧力をかけるため、并州の董卓を呼び寄せようとした。盧植が董卓の凶悪な性格を知っていたため、それを止めさせようとしたが、何進はそれに従わなかった。
何進が暗殺されると、その部下の袁紹らが宦官誅罰のため挙兵した。盧植もそれに参加し、帝らを連れて逃げる宦官の前に、戈を持って立ち塞がっている。
董卓が実権を掌握し、帝を少帝から献帝に挿げ替えようとすると、董卓の暴虐さに誰もが口を噤む中で、盧植のみがこれに反対した。そのため董卓によって処刑されかけたが、海内の学者・大儒として名高く人望の厚かった盧植は、蔡邕や議郎の彭伯の取り成しで助命され、免職だけに留められた。
その後、災いを避けるため病を理由に都から轘轅道を伝って逃亡した。董卓は懐県まで追っ手を差し向けたが、追い付けなかった。
盧植は郷里に隣接する上谷郡で隠遁生活を送った。その後、冀州牧となった袁紹に招かれて軍師となり、初平3年(192年)に病死した。
建安年間になり、袁紹を破り河北に進出した曹操は、袁紹の子らを破り柳城まで遠征する途中、盧植の故郷である涿郡を通過した。曹操はこの時、亡き盧植の功績を称えて顕彰し、子の盧毓らを官職に就けて報いた。
創作における盧植
小説『三国志演義』では、黄巾の乱討伐の将軍として登場する。かつての教え子で義勇軍を率いる劉備と再会し、劉備が「先生」と呼んで尊敬している様子が描写されている。宦官の讒言で陥れられて、囚人車で都に護送される場面では、行き会わせた劉備らが驚き、張飛が力尽くで救おうとするのを叱咤して止めさせるなど、見せ場がある。後に史実通り朝臣として復帰し、董卓の専横に反対し引退。劉備三兄弟との再会を果たす事はないまま、物語から姿を消している。
小説
- 三国志名臣列伝 後漢篇 (宮城谷昌光、文藝春秋、2018年)
参考資料
盧植
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「三国志 (横山光輝の漫画)」の記事における「盧植」の解説
玄徳の学問の師匠であり、黄巾賊の乱平定のために官軍を率いる将軍の一人。(2巻)
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