党錮の禁とは? わかりやすく解説

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とうこ‐の‐きん〔タウコ‐〕【党錮の禁】

読み方:とうこのきん

中国後漢末起こった学問弾圧事件儒教学派官僚党人)が宦官(かんがん)の専横対抗しようとし、逆に終身禁錮処せられた。党錮の獄。


党錮の禁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/26 16:30 UTC 版)

党錮の禁(とうこのきん)は、後漢末期に起きた弾圧事件。宦官勢力に批判的な清流派士大夫党人)らを宦官が弾圧したもので、その多くが禁錮刑(現代的な禁錮刑とは異なり、官職追放・出仕禁止をさす)に処された事からこの名で呼ばれる。党錮の禁は延熹9年(166年)と建寧2年(169年)の2回行われ、それぞれ第一次党錮の禁、第二次党錮の禁と呼ばれた。

党錮の禁の背景

後漢の和帝が外戚の竇憲らを排除するのに宦官を用いて以降、宦官の勢力が強くなるようになった。しかしこれら宦官の多くは自らの利権の追求に専念し、外戚が専横していた頃以上の汚職が蔓延するようになった。

こうした状況に対し、一部の士大夫豪族)らは清流派と称し徒党を組み、宦官やそれに結びつく勢力を濁流派と名づけ公然と批判するようになった。この批判の背景には、宦官を一人前の人間として認めない儒教的な価値観や、従来士大夫がその選抜に強い影響力を持っていた「郷挙里選」における「孝廉」の推挙まで宦官の利権の対象となった事に対する反発が影響したと見られている。

この宦官と士大夫の対立は、宦官と外戚との間でたびたび行われた権力闘争ともかかわり深刻なものとなっていた。

事件の経過

第一次党錮の禁

延熹9年(166年)、司隷校尉李膺太学の学生の郭泰や賈彪などからなるいわゆる「清流派」と呼ばれる者達が朝廷に於いて、中常侍の専横を批判し罪状を告発したが、中常侍たちは逆に「党人どもが朝廷を誹謗した」と訴え、李膺ら清流派党人を逮捕した。逮捕者は豪族達の運動で死罪は免れたものの、終身禁錮の刑に処された。これを第一次党錮の禁という。

第二次党錮の禁

建寧2年(169年)、外戚竇武と清流派党人陳蕃らが結託して宦官排除を計画し挙兵したが、宦官の曹節と王甫が協力し、詔勅を偽って逆に竇武達を誅殺した。この乱の加担者や清流派の党人らに対して行われた弾圧を第二次党錮の禁と呼ぶ。

党錮の禁の終結

この党錮の禁の対象者は熹平5年(176年)に党人の一族郎党まで拡大された。その後黄巾の乱が起きた際、追放された党人らが乱に加担する事を恐れた後漢朝廷によって禁が解かれ、党錮の禁は終結した。

黄巾の乱が終結すると、十常侍はじめとする宦官と外戚の何進との間で再び権力闘争が起きる。宦官らは何進を謀殺するが、その後何進謀殺に怒り宮中に乱入した、袁紹袁術らの軍勢が宦官らを皆殺しにした事により、宦官と外戚の権力闘争は共倒れという形で終結したが、その隙に洛陽を占拠した董卓により後漢王朝は統治力を無くした。

三君八俊

党錮の禁が起こると、清流派の名士達は評価の高い天下の名士にそれぞれ位階、称号をつけて、位階を上から『三君』『八俊』『八顧』『八及』『八廚』と呼んだ。

『君』とは一世で宗主として仰ぐ者のこと、

『俊』とは英才を持った者のこと、

『顧』とは徳を持ち人々を導く者のこと、

『及』とは人々を導き宗主を追う者のこと、

『廚』とは財をなげうって人々を救う者のことを示す。[1]

三君竇武 劉淑 陳蕃

八俊李膺 荀昱 杜密 王暢 劉祐 魏朗 趙典 朱宇

八顧郭泰 宗慈 巴粛 夏馥 范滂 尹勲 蔡衍 羊陟

八及張倹 岑晊 劉表 陳翔 孔昱 苑康 檀敷 翟超

八廚度尚 張邈 王考 劉儒 胡毋班 秦周 蕃向 王章

党錮の禁に関する研究

川勝義雄は党錮の禁にて弾圧された勢力は、

豪族の中で宦官政府と密着した濁流勢力に対して儒家的教養を身に着けた清流勢力である。清流勢力は自らの間で政府とは別の人物評価(郷論)を行い、互いの関係を密にすることにより政府とは別の次元で勢力を力を得た。清流勢力は新たに台頭した曹操に協力することで地方の秩序を回復し、その後のにて主要な地位を占め、漢から魏、魏から晋への政権交代へと繋がった。

とした。

これに対して矢野主税は

清流勢力は魏晋まで存続した家よりも後漢末に没落してしまった家の方が多く、清流勢力は貴族の系譜へ繋がるとはいえない。後漢末に人物評価が行われ、各地にそのような評価が高い「名士」が誕生したが、これと清流勢力(党人)とは別の物であり、清流勢力と濁流勢力の争いは結局は権力争いに過ぎない。

とする。

この両者の論争は貴族制研究・中国史時代区分論争に絡んで1950年から1970年代にかけて激しく行われたが、明確な結論が出ないままに終焉している。

脚注

  1. ^ 范曄後漢書』より。

党錮の禁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 10:23 UTC 版)

桓帝 (漢)」の記事における「党錮の禁」の解説

宦官による政権掌握に不満を抱いた外戚豪族勢力は、宦官儒教的穢れた存在として対抗宦官濁流、自らを清流称して政争が始まる。 延熹2年159年)、河南尹李膺宦官犯罪摘発しようとしたところ、逆に投獄される事件契機に、宦官勢力豪族たちを党人徒党組んで政治を乱す者と見做し弾圧行った李膺は後に許され司隷校尉となり、宦官恐れず摘発したことで名声高める。その後清官として名声があった陳蕃と共に太学大学)の学生たちの支援を受け両者宦官への糾弾開始するが、延熹10年167年)に宦官たちはこれに大規模な弾圧対抗した(党錮の禁)。 党錮の禁で逮捕され人数200人に及び、逮捕者無罪とされた後も免職され以後仕官の道が閉ざされた。この処置清流派の強い不満の原因となり、清流派の代表である李膺陳蕃名声はますます高くなった。桓帝崩御後には陳蕃による宦官誅滅作戦が行われたが失敗、再び宦官たちによる弾圧第二次党錮の禁)が実施され清流派と宦官対立がますます深まることになる。 宦官専横が後の黄巾の乱要因となり、豪族宦官対立黄巾後の戦乱時代生むことになった桓帝時代には後漢の滅亡要因となる清濁争い原因形成され時代である。 特筆すべき事例として、延熹9年166年)に大秦ローマ帝国国王安敦マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の使節入朝している。 その他に延熹7年164年12月外戚に当たる侍中寇栄の度重なる諌言激怒して幽州刺史張敬勅命発してこれを処刑させている。

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党錮の禁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 13:33 UTC 版)

鄭玄」の記事における「党錮の禁」の解説

党錮の禁が起き、同郡の孫嵩ら40人程が禁錮処分になると、鄭玄その影響を受け、門を閉ざし外出しないようになった。これは建寧4年171年)、鄭玄45歳時のことで、その後党錮が解かれる中平元年184年)までの間、鄭玄は学塾を経営しながら『周礼』『儀礼』『礼記』に対する注を執筆したまた、この頃何休公羊学好み、『公羊墨守』『左氏膏肓』『穀廃疾』を著述したが、鄭玄はそれらの著書反論をしたところ、何休鄭玄学識感嘆したという話が残っている。

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