党錮の禁の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/15 08:07 UTC 版)
後漢の和帝が外戚の竇憲らを排除するのに宦官を用いて以降、宦官の勢力が強くなるようになった。しかしこれら宦官の多くは自らの利権の追求に専念し、外戚が専横していた頃以上の汚職が蔓延するようになった。 こうした状況に対し、一部の士大夫(豪族)らは清流派と称し徒党を組み、宦官やそれに結びつく勢力を濁流派と名づけ公然と批判するようになった。この批判の背景には、宦官を一人前の人間として認めない儒教的な価値観や、従来士大夫がその選抜に強い影響力を持っていた「郷挙里選」における「孝廉」の推挙まで宦官の利権の対象となった事に対する反発が影響したと見られている。 この宦官と士大夫の対立は、宦官と外戚との間でたびたび行われた権力闘争ともかかわり深刻なものとなっていた。
※この「党錮の禁の背景」の解説は、「党錮の禁」の解説の一部です。
「党錮の禁の背景」を含む「党錮の禁」の記事については、「党錮の禁」の概要を参照ください。
- 党錮の禁の背景のページへのリンク