党運動首都建設総監
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 09:20 UTC 版)
「ヘルマン・ギースラー」の記事における「党運動首都建設総監」の解説
1938年12月21日、ナチス発祥の地である「党運動首都(ドイツ語版)」ミュンヘンの都市改造を担当する「党運動首都建設総監」に任命された。これは前任者であるヘルマン・アルカー(ドイツ語版)の解任と連動したものであった。 ギースラーの組織はミュンヘン市の都市計画機関とは関係を持たない、ヒトラー直属の組織であり、ベルリン建設総監のシュペーアの組織と極めて類似した三つのセクション(法務管理局、計画局、執行局)で構成されていた。唯一異なる点は最大のモニュメントとなるミュンヘン中央駅デザインのための「中央駅設計事務局」がパウル・ボナッツ(ドイツ語版)の管理下でこの組織に組み込まれていることであった。 またギースラーは総統令によってベルリン建設総監に等しい権限を与えられていたが、ギースラーの計画案がヒトラーによって指示されている設計と食い違いを生じた場合にはギースラーはヒトラーの了解を得なくてはならないという条件を計画委託の際に与えられており、計画の主導権は依然としてヒトラーにあった。また、ベルリン建設総監であるシュペーアとは犬猿の仲であり何もコンタクトはなかった。 1939年にはバイエルン及びオストマルク建設全権委任者に任命される。
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