党近代化、三木答申とは? わかりやすく解説

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党近代化、三木答申

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)

三木武夫」の記事における「党近代化、三木答申」の解説

三木1958年昭和33年)末に第2次岸内閣経済企画庁長官科学技術庁長官辞任後、しばらく無役であった安保改定後の岸内閣退陣に伴う総裁選で、三木松村石橋河野とともに石井光次郎後継総裁候補推したが、池田前に敗北池田政権開始時、三木反主流派となった。しかし首相になったばかり池田は、東京電力木川田一隆昭和電工安西正夫三井不動産江戸英雄野村證券奥村綱雄ら、自らを囲む財界人グループ三木紹介し勉強会などを開くようになった1961年昭和36年7月18日第2次池田内閣に、三木科学技術庁長官原子力委員長として入閣した当時新人代議士であった海部俊樹2度目となる科学技術庁長官就任を断るように進言したところ、これからの時代科学技術大切になるのだ、とたしなめたという。しかし三木原子力など科学技術得意分野ではなく科学技術関連専門家日曜日の夜自宅招き小学生向け基礎基礎から勉強した三木池田内閣時代進められ自民党近代化向けて取り組み主導する役割担った自由民主党自由党民主党合同することにより形成され経緯から、結党時は旧民主党系、旧自由党系などの対立目立ち近代的な政党組織確立した上で機能的な運営を行うこと、いわゆる近代化結党当初から課題とされていた。そして石橋、岸、石井による三つ巴激し総裁選挙後、自民党では派閥問題、そして総裁公選問題が党近代化向けて大きな課題として浮上してきた。1956年昭和31年3月自民党第4回党大会では、当時幹事長務めていた三木は、派閥解消を党情報告に盛り込んだ1959年昭和34年1月第6回自民党党大会では党基本問題調査会設置され調査会の中で派閥解消論議されることになった。しかし池田総裁就任当初、党近代化対す関心をあまり持たなかった。しかし60年安保闘争実力付けつつあった革新勢力動向見て自民党としても党組織改革を行うべきとの声が高まり1961年昭和36年1月第9回党大会益谷秀次幹事長党組織改革論議する組織調査会立ち上げ表明し党大会益谷報告承認されたことにより、組織調査会設置され益谷が、ついで8月には倉石忠雄会長となっていた。 それでも池田の党近代化対す動き鈍かった。しかし1962年昭和37年)になると、岸に近い反主流派福田赳夫らが派閥解消などを唱えた活動見せるようになり、池田ライバルであった佐藤栄作池田政策対す批判強めていた。福田佐藤らの動き対抗するため、池田同年7月総裁再選後、派閥弊害除去などの党近代化改め課題として掲げることになった池田は党近代化進め党組織調査会候補として三木白羽の矢立てた三木池田からの会長就任依頼をいったん断り前尾繁三郎幹事長調査会長を兼任するものと見られていたが、池田三木に対して近代化方法全面的に任せる…二人だけでも自民党体質改善近代化をやろう」と、改め説得した結果会長引き受けることとなった1961年昭和36年10月三木倉石代わり組織調査会長に就任する三木14名の副会長100近く委員任命した多く議員派閥幹部議論巻き込むことによって、議員利害直接係わる問題としての当事者意識高めようもくろんだ考えられる三木会長の下、組織調査会1963年昭和38年7月中間答申出した三木当時の社会党は政権担当能力欠けると見ており、中間答申では政権担当能力備えた唯一の政党として自民党派閥解消し総裁中心とした党組織確立することを提言していた。そして10月には最終答申いわゆる三木答申出された。 答申ではまず派閥無条件解消謳われた。また派閥均衡人事打破政治資金これまでの派閥単位中心から党に一本化することと個人後援会政治資金受け入れ上限額設定、金がかからない政党本位選挙制度への改革総裁任期3年とし、総裁議長経験者永年勤続議員などからなる顧問会が総裁候補推薦した上で総裁選実施などが挙げられた。三木自民党総裁選党内の派閥強化させている要因判断していた。従って総裁選改革答申内でも重視されたが、自民党地方組織が脆弱な現状では、総裁選時に地方代議員票の比率高めことより顧問会での推薦制を導入したほうが効果的判断したなど、三木なりの情勢判断踏まえた上で三木答申であった三木答申対し河野派閥有用論を唱え答申実施反対した。佐藤派河野反対捉え佐藤派解散約束した上で河野への攻撃材料とした。結局池田説得もあって河野派閥解消合意し1964年昭和39年初めに党内の全派閥はいったん解散宣言するものの、各派とも政治的なかけ引き材料として派閥解消利用するばかりで、まもなく派閥揃って復活遂げた。そして7月池田三選時の総裁選挙では派閥単位激し政争繰り広げられ三木答申最重要課題位置づけ派閥解消は全く実現しなかった。ただ三木答申きっかけとして派閥再編進みこれまで八個師団呼ばれていた派閥が主要派閥5つとなっていく。

※この「党近代化、三木答申」の解説は、「三木武夫」の解説の一部です。
「党近代化、三木答申」を含む「三木武夫」の記事については、「三木武夫」の概要を参照ください。

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