党近代化、三木答申
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三木は1958年(昭和33年)末に第2次岸内閣の経済企画庁長官、科学技術庁長官を辞任後、しばらく無役であった。安保改定後の岸内閣の退陣に伴う総裁選で、三木は松村、石橋、河野らとともに石井光次郎を後継総裁候補に推したが、池田の前に敗北。池田政権開始時、三木は反主流派となった。しかし首相になったばかりの池田は、東京電力の木川田一隆、昭和電工の安西正夫、三井不動産の江戸英雄、野村證券の奥村綱雄ら、自らを囲む財界人のグループに三木を紹介し、勉強会などを開くようになった。 1961年(昭和36年)7月18日、第2次池田内閣に、三木は科学技術庁長官、原子力委員長として入閣した。当時新人代議士であった海部俊樹が2度目となる科学技術庁長官就任を断るように進言したところ、これからの時代、科学技術は大切になるのだ、とたしなめたという。しかし三木は原子力など科学技術は得意分野ではなく、科学技術関連の専門家を日曜日の夜、自宅に招き、小学生向けの基礎の基礎から勉強した。 三木は池田内閣時代に進められた自民党近代化に向けての取り組みを主導する役割を担った。自由民主党は自由党と民主党が合同することにより形成された経緯から、結党時は旧民主党系、旧自由党系などの対立が目立ち、近代的な政党組織を確立した上で機能的な党運営を行うこと、いわゆる党近代化が結党当初から課題とされていた。そして石橋、岸、石井による三つ巴の激しい総裁選挙後、自民党では派閥問題、そして総裁公選問題が党近代化に向けての大きな課題として浮上してきた。1956年(昭和31年)3月の自民党第4回党大会では、当時幹事長を務めていた三木は、派閥解消を党情報告に盛り込んだ。 1959年(昭和34年)1月の第6回自民党党大会では党基本問題調査会が設置され、調査会の中で派閥解消が論議されることになった。しかし池田は総裁就任当初、党近代化に対する関心をあまり持たなかった。しかし60年安保闘争で実力を付けつつあった革新勢力の動向を見て、自民党としても党組織の改革を行うべきとの声が高まり、1961年(昭和36年)1月の第9回党大会で益谷秀次幹事長が党組織改革を論議する組織調査会の立ち上げを表明し、党大会で益谷の報告が承認されたことにより、組織調査会が設置され、益谷が、ついで8月には倉石忠雄が会長となっていた。 それでも池田の党近代化に対する動きは鈍かった。しかし1962年(昭和37年)になると、岸に近い反主流派の福田赳夫らが派閥解消などを唱えた活動を見せるようになり、池田のライバルであった佐藤栄作も池田の政策に対する批判を強めていた。福田や佐藤らの動きに対抗するため、池田は同年7月の総裁再選後、派閥の弊害除去などの党近代化を改めて課題として掲げることになった。池田は党近代化を進める党組織調査会長候補として三木に白羽の矢を立てた。三木は池田からの会長就任依頼をいったん断り、前尾繁三郎幹事長が調査会長を兼任するものと見られていたが、池田は三木に対して「近代化の方法は全面的に任せる…二人だけでも自民党の体質改善、近代化をやろう」と、改めて説得した結果、会長を引き受けることとなった。1961年(昭和36年)10月、三木は倉石に代わり組織調査会長に就任する。三木は14名の副会長、100名近くの委員を任命した。多くの議員、派閥幹部を議論に巻き込むことによって、議員の利害に直接係わる問題としての当事者意識を高めようともくろんだと考えられる。 三木会長の下、組織調査会は1963年(昭和38年)7月に中間答申を出した。三木は当時の社会党は政権担当能力に欠けると見ており、中間答申では政権担当能力を備えた唯一の政党として、自民党が派閥を解消し、総裁を中心とした党組織を確立することを提言していた。そして10月には最終答申、いわゆる三木答申が出された。 答申ではまず派閥の無条件解消が謳われた。また派閥均衡人事の打破、政治資金をこれまでの派閥単位中心から党に一本化することと個人後援会の政治資金受け入れ上限額の設定、金がかからない政党本位の選挙制度への改革、総裁任期を3年とし、総裁、議長経験者、永年勤続議員などからなる顧問会が総裁候補を推薦した上での総裁選の実施などが挙げられた。三木は自民党総裁選が党内の派閥を強化させている要因と判断していた。従って総裁選改革が答申内でも重視されたが、自民党の地方組織が脆弱な現状では、総裁選時に地方代議員票の比率を高めることよりも顧問会での推薦制を導入したほうが効果的と判断したなど、三木なりの情勢判断を踏まえた上での三木答申であった。 三木答申に対し、河野は派閥有用論を唱え答申の実施に反対した。佐藤派は河野の反対を捉え、佐藤派解散を約束した上で河野への攻撃材料とした。結局池田の説得もあって河野も派閥解消に合意し、1964年(昭和39年)初めには党内の全派閥はいったん解散を宣言するものの、各派とも政治的なかけ引きの材料として派閥解消を利用するばかりで、まもなく派閥は揃って復活を遂げた。そして7月の池田三選時の総裁選挙では派閥単位で激しい政争が繰り広げられ、三木答申が最重要課題と位置づけた派閥解消は全く実現しなかった。ただ三木答申をきっかけとして派閥の再編が進み、これまで八個師団と呼ばれていた派閥が主要派閥5つとなっていく。
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