結党当初とは? わかりやすく解説

結党当初

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/13 06:45 UTC 版)

独立労働党」の記事における「結党当初」の解説

新党大いなる希望期待背負って結成されたものの、最初数年間は困難に満ち溢れていた。党や指導組織方向性巡って論争絶えなかったため、期待された程選挙で躍進しなかったのである国民の信を問う臨んだ1895年総選挙では惨敗NACが党の論争纏め上げる上で主導権握りILP公認候補28名しかいない中での選挙であった個人的人気がある党首ケア・ハーディでさえ、保守党直接対決すれば負けであろうとされ、全員落選。なお、この選挙では「リブ・ラブ派」に転向し自由党急進派支援受けたバーンズ議席維持何れにせよ1895年選挙における大敗は、とめど無い楽観論党内を覆う事になる。 このようにILP当初より決し一枚岩組織ではなく寧ろ労働者階級の「包括政党」を目指しており、不明確かつ無定形社会主義的アジェンダ主張歴史家ロバート・Eドーズ次のように述べている。 ILP当初より労働者階級政党として労働組合影響与えようとしていた。ヘンリー・ペイリンが述べたように、「議会権力を握るため、労働組合から資金得て労働組合との連携」 を模索していたのであるILP社会主義は、この目標達す上で理想であった如何に理論的な基礎欠いていようが、労働組合員要求事実上応える事が出来た具体的に禁酒運動スコットランド民族主義メソジストマルクス主義フェビアン主義そしてバーク流の保守主義さえ、問題無く包含していたのであるこうした多様性は奇妙ではあるが、教条主義に基づき如何なる者をも排除しないという計り知れない利点があり、当時事情考えて軽視する事は出来ない。 勿論緩やかかつ多様な考え擁する党であるが故、組織本性なり計画巡って論争絶えなかった。党組織決定当初厳格な民主主義基づいており、党大会1895年総選挙に際して政策決めるために開かれたように、こうした議論幾許かの強い影響与えている。 にも関わらずNAC選挙纏わる決定他党との関係といった、重大な問題大きく関与するなど、党活動に相当の権力保持するようになった1895年総選挙における敗北契機に、中央集権化や反民主的な行為加速させる事となる。 19世紀末NACにおいて、党首ケア・ハーディ加え党指導部において向こう20年間の方向性共有する4名の人物登場1897年NAC選出され1900年ハーディ後継として議長就いたスコットランド人ブルース・グレーシャー、福音派社会主義者のフィリップ・スノーデン、労働組合員としての出馬拒絶された事から、自由党への幻滅味わったラムゼイ・マクドナルドである。 4人の間にはかなりの個人的な確執があったものの、党がマルクス主義標榜する社会民主同盟のようなイデオロギーに基づく統一体というよりは寧ろ労働組合との連携模索すべきとする基本的な見解共有していた。 1895年総選挙における敗北以後党執行部選挙戦通じて党勢拡大断念1898年までには、出来るだけ多く候補擁立して党の露出最大限まで図り得票率最大限にまで積み重ねるよりは寧ろ候補擁立を公式に控えるに至る。 労働組合との関係もまた問題多かった1890年代においては労働組合との連携上手くいかず、労働組合員入党成ったものの、党役員との関係が希薄となってゆく。 1900年には労働代表委員会結成中心的な役割果たし労働党1906年結党された際は直ち合流派閥形成や党の存続許される見返りに、結党から数年間は労働党活動基盤提供する事となる。

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結党当初

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 04:30 UTC 版)

中国青年党」の記事における「結党当初」の解説

中国青年党(以下「青年党」と記述する)はフランス留学していた曽琦李璜等により1923年民国12年12月2日パリ結成された。「革命政党」を自認して国家主義精神に基づく外難の克服中華民国独立と自由の獲得福祉国家建設理想とした。また、反共主義掲げている。1924年民国13年4月第1回党大会開催し、曽が委員長選出された。 同年、曽琦、璜ら幹部帰国し国内少年中国学会右派として活動していた左舜生陳啓天らもこれに合流した中国国内における青年党は当初中国国家主義青年団」と称する秘密結社であり、国内正式結党前後には共産党との武力抗争展開していた。1926年民国15年)、上海第1回全国代表大会開催して公的に政党活動開始するあわせて曽が中央執行委員会委員長選出された。政治的に中国国民党敵視し北伐反対して北京政府支持した。この青年党の姿勢は、1927年民国16年の上クーデター四・一政変)で蔣介石権力を掌握国民党反共転じても、変化無かった

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結党当初

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/14 15:37 UTC 版)

イギリスファシスト党」の記事における「結党当初」の解説

イギリスファシスト党は、ロウサ・リントーン=オーマン嬢によって1923年結成された。これは、前年イタリアでベニート・ムッソリーニローマ進軍によってファシスト政権樹立したことを受けて動きであり、結成当初党名一部イタリア語風にして「British Fascisti」と名乗っていた。党は、政治世界でもほとんど注目されることはなく、ボーイスカウト運動大人に過ぎない見られており、政策でも、ムッソリーニ賞賛し、激し反共主義唱える上の中身はほとんど持っていなかった。 しかし、1924年労働党自由党との連立初め政権参加すると、左翼への反発からイギリスファシスト党参加する者が増えた党員には、第一次世界大戦従軍した退役士官兵員多数含まれており、保守党集会警備務めたり、保守党関係者への個別接触重ねた。これは、もともと保守党内の過激な者たちがイギリスファシスト党転じることを企図した策だった。党が掲げた数少ない政策一つ所得税減税で、減税をすれば富裕層がより多く召使い雇用するうになるので失業解消される、という主張なされた。なお、イギリスファシスト党は、後には協調組合主義国家提唱するうになる

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