結党当初
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新党は大いなる希望と期待を背負って結成されたものの、最初の数年間は困難に満ち溢れていた。党や指導、組織の方向性を巡って論争が絶えなかったため、期待された程選挙で躍進しなかったのである。 国民の信を問うて臨んだ1895年の総選挙では惨敗。NACが党の論争を纏め上げる上で主導権を握り、ILP公認候補が28名しかいない中での選挙であった。 個人的人気がある党首のケア・ハーディでさえ、保守党と直接対決すれば負けるであろうとされ、全員落選。なお、この選挙では「リブ・ラブ派」に転向し、自由党急進派の支援を受けたバーンズが議席を維持。何れにせよ、1895年の選挙における大敗は、とめど無い楽観論が党内を覆う事になる。 このように、ILPは当初より決して一枚岩の組織ではなく、寧ろ労働者階級の「包括政党」を目指しており、不明確かつ無定形の社会主義的なアジェンダを主張。歴史家のロバート・E・ドーズは次のように述べている。 ILPは当初より労働者階級の政党として、労働組合に影響を与えようとしていた。ヘンリー・ペイリンが述べたように、「議会で権力を握るため、労働組合から資金を得て、労働組合との連携」 を模索していたのである。ILPの社会主義は、この目標に達する上での理想であった。如何に理論的な基礎を欠いていようが、労働組合員の要求に事実上応える事が出来た。具体的には禁酒運動、スコットランド民族主義、メソジスト、マルクス主義、フェビアン主義そしてバーク流の保守主義さえ、問題無く包含していたのである。こうした多様性は奇妙ではあるが、教条主義に基づき如何なる者をも排除しないという計り知れない利点があり、当時の事情を考えても軽視する事は出来ない。 勿論緩やかかつ多様な考えを擁する党であるが故、組織の本性なり計画を巡っては論争が絶えなかった。党組織の決定は当初は厳格な民主主義に基づいており、党大会が1895年の総選挙に際しての政策を決めるために開かれたように、こうした議論が幾許かの強い影響を与えている。 にも関わらず、NACは選挙に纏わる決定や他党との関係といった、重大な問題に大きく関与するなど、党活動に相当の権力を保持するようになった。1895年の総選挙における敗北を契機に、中央集権化や反民主的な行為を加速させる事となる。 19世紀末のNACにおいて、党首ケア・ハーディに加え、党指導部において向こう20年間の方向性を共有する4名の人物が登場。1897年NACに選出され、1900年にハーディの後継として議長に就いたスコットランド人ブルース・グレーシャー、福音派社会主義者のフィリップ・スノーデン、労働組合員としての出馬を拒絶された事から、自由党への幻滅を味わったラムゼイ・マクドナルドである。 4人の間にはかなりの個人的な確執があったものの、党がマルクス主義を標榜する社会民主同盟のようなイデオロギーに基づく統一体というよりは寧ろ、労働組合との連携を模索すべきとする基本的な見解は共有していた。 1895年の総選挙における敗北以後、党執行部は選挙戦を通じての党勢拡大を断念。1898年までには、出来るだけ多くの候補を擁立して党の露出を最大限まで図り、得票率を最大限にまで積み重ねるよりは寧ろ、候補の擁立を公式に控えるに至る。 労働組合との関係もまた問題が多かった。1890年代においては労働組合との連携が上手くいかず、労働組合員の入党が成ったものの、党役員との関係が希薄となってゆく。 1900年には労働代表委員会の結成に中心的な役割を果たし、労働党が1906年に結党された際は直ちに合流。派閥の形成や党の存続が許される見返りに、結党から数年間は労働党の活動基盤を提供する事となる。
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結党当初
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中国青年党(以下「青年党」と記述する)はフランスに留学していた曽琦・李璜等により1923年(民国12年)12月2日にパリで結成された。「革命政党」を自認して、国家主義の精神に基づく外難の克服、中華民国の独立と自由の獲得、福祉国家の建設を理想とした。また、反共主義も掲げている。1924年(民国13年)4月、第1回党大会を開催し、曽が委員長に選出された。 同年、曽琦、李璜ら幹部は帰国し、国内で少年中国学会内右派として活動していた左舜生・陳啓天らもこれに合流した。中国国内における青年党は当初「中国国家主義青年団」と称する秘密結社であり、国内正式結党の前後には共産党との武力抗争を展開していた。1926年(民国15年)、上海で第1回全国代表大会を開催して公的に政党活動を開始する。あわせて曽が中央執行委員会委員長に選出された。政治的には中国国民党を敵視し、北伐に反対して北京政府を支持した。この青年党の姿勢は、1927年(民国16年)の上海クーデター(四・一二政変)で蔣介石が権力を掌握し国民党が反共に転じても、変化が無かった。
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結党当初
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「イギリスファシスト党」の記事における「結党当初」の解説
イギリスファシスト党は、ロウサ・リントーン=オーマン嬢によって1923年に結成された。これは、前年イタリアで、ベニート・ムッソリーニがローマ進軍によってファシスト政権を樹立したことを受けての動きであり、結成当初は党名の一部をイタリア語風にして「British Fascisti」と名乗っていた。党は、政治の世界でもほとんど注目されることはなく、ボーイスカウト運動の大人版に過ぎないと見られており、政策面でも、ムッソリーニを賞賛し、激しい反共主義を唱える以上の中身はほとんど持っていなかった。 しかし、1924年に労働党が自由党との連立で初めて政権に参加すると、左翼への反発からイギリスファシスト党に参加する者が増えた。 党員には、第一次世界大戦に従軍した退役士官や兵員が多数含まれており、保守党の集会で警備を務めたり、保守党関係者への個別接触を重ねた。これは、もともと保守党内の過激な者たちがイギリスファシスト党に転じることを企図した策だった。党が掲げた数少ない政策の一つは所得税減税で、減税をすれば富裕層がより多くの召使いを雇用するようになるので失業が解消される、という主張がなされた。なお、イギリスファシスト党は、後には協調組合主義国家を提唱するようになる。
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