ローマ進軍とは? わかりやすく解説

ローマ進軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/10 10:23 UTC 版)

進軍するファシスト党員
ローマに入城したファシスト党員(1922年)

ローマ進軍(ローマしんぐん、: Marcia su Roma)とは、1922年10月にイタリア王国で起きた、ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党および民兵組織「黒シャツ隊」による、政権獲得のためのクーデターのことである[1]

ムッソリーニは直接行動による政権奪取を目指していたが、軍によるさまざまな妨害活動や党員間の連絡の不行き届きなどから、計画の多くが未遂に終わり、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世よりムッソリーニに組閣の命が下ったことで、実質的に無血クーデターとなった。

概要

1922年10月24日、ファシスト党はナポリで党大会を開き、黒シャツ隊を集結させ、首都ローマへの進軍を命じた[1]。また、軍の一部もひそかに協力姿勢を見せた。ルイージ・ファクタ内閣や軍部の主流派は、列車で向かってくる反乱部隊に対し、武力による制圧、つまり内戦によって解決しようと試みたが、戒厳令の発布を好まなかった国王によって退けられ、ファクタは辞任に追い込まれた[1]。それまでにムッソリーニは進軍の失敗を覚悟しており、スイスへの亡命の準備をしていたという。

10月29日、黒シャツ隊は首都ローマへ無血入城を果たし、国王は同日、ムッソリーニに組閣の大命を下した[1]

影響

1年後の1923年11月、ドイツにてアドルフ・ヒトラー率いる国民社会主義ドイツ労働者党がローマ進軍を参考にミュンヘン一揆を起こすが、翌日には鎮圧され、ヒトラーも逮捕された。

1926年5月にポーランドユゼフ・ピウスツキが起こした権威主義軍事クーデター「五月革命ポーランド語版英語版」も、ローマ進軍を研究した上で起こされたものだった。五月革命はピウスツキ軍と政府軍の間で激しい市街戦が生じているものの、こちらは数日でピウスツキ率いるクーデター側が勝利した。

このように各国のファシズム団体によるローマ進軍を模倣したクーデター事件が続発した。そのほとんどは未遂に終わるか、謀議の段階で摘発されている。

脚注

外部リンク

関連項目


ローマ進軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:43 UTC 版)

ルキウス・コルネリウス・スッラ」の記事における「ローマ進軍」の解説

スッラ狂ったように自分攻撃したスルピキウスの死を願っていた。しかし、彼は既に奴隷裏切られていた。スッラ自分命令を守るため、その奴隷に自由を与えたが、すぐに彼をタルペーイアの岩から落とすよう命令した。この点ではスッラ公正だったと言えるだろう。 ウァレリウス・マクシムス有名言行録』6.5.7 軍を掌握したスッラは、同僚執政官ポンペイウス・ルフスと共にローマに軍を向けた元老院2人プラエトル派遣してスッラ思いとどまるよう説得したが、その態度不遜であったためファスケス折られトガ引き裂かれ追い返された。マリウス非正規軍を組織して準備していたが、スッラ正規6個軍団率いており、夢にも吉兆現れた。元老院全ての権限スッラに戻すと約束したが、スッラローマ侵入し非正規軍の抵抗があったため街に火をかけ蹂躙したテルース神殿追い詰められマリウス解放奴隷味方につけようとしたが、スッラの手迫ったために脱出したスッラ元老院招集してスルピキウスやマリウスに公敵宣告したが、スルピキウスは既に自身従者殺されていた。この時、スカエウォラ・アウグルだけがスッラ強要抵抗したという。しかし市民反発予想上でスッラ身内幾人かが政務官選挙落選したスッラ民衆反発を気にして形式的な自由を認め反対派ルキウス・コルネリウス・キンナ翌年執政官据えることにした。キンナは石を持ってスッラ政策継承する事を誓い、この誓い破ればこの石のように追放されるであろうと言って壇上から投げ捨てた誓い反してキンナ就任するとすぐ護民官スッラ告発させたが、スッラはそれを無視してミトリダテス戦争出発した出発前にアウグル就任している。 なお、スッラのローマ進軍は史上初のことで、従来マリウスの軍制改革によってローマ軍司令官私兵化した現れとされてきた。しかし以前にも護民官ガイウス・グラックスに対して元老院最終決議下され執政官治安維持名目鎮圧した前例があり、その図式と同じという指摘もある。またスッラ配下士官たちでスッラ同行したのは一人だけ(義理親戚であるルキウス・リキニウス・ルクッルス)であり、一概に私兵化の結果とは言えない。

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ローマ進軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 07:18 UTC 版)

内乱の一世紀」の記事における「ローマ進軍」の解説

スッラ使者への侮蔑はローマ進軍という行為への決断の証であったが、当のスッラ前日まで大罪を犯すかどうか悩んだ。だが枕元に自らの行為賞賛する女神訪れ夢に励まされ攻撃命令したという。対すマリウス浮き足立つ民衆派議員まとめてローマ防衛準備大急ぎ進めていた。 未明ローマへたどり着いたスッラ軍に元老院城門空けてスッラ達を招き入れた。彼らはスッラ全ての権限復権される事を約束しその代わり陣営設営するのみに留め即時攻撃取りやめる事を要請したスッラはこれを受け入れ素振り見せたが、交渉役がエスクイリヌス城壁通ろうとした所で猛然と攻撃開始して一挙に城門突破したスッラ騙し討ちローマ市民激怒して自ら武装してスッラ軍に襲い掛かり、また武器持たぬ者は屋根瓦兵士達投げつけた。予想上の抵抗軍団兵市民兵に苦戦強いられスッラ火矢を当たりかまわず家屋打ち込む様に命令出した。火は瞬く間家屋燃え移り市街地大火災見舞われ大勢ローマ市民犠牲となった。その過程民衆派閥族派区別する考慮スッラには全く無かった攻撃時、奴隷達に防衛軍への参加促していたマリウステルス神殿逃れ、そこからローマ国外へ亡命したマリウス一族逃げ去った後、スルピキウスは使用人によって暗殺された。スッラマリウス懸賞金賭けてローマ全土行方を捜させた。スッラ元老院への主導権取り戻したが、暴挙影響から元老院内には少なからぬスッラ派が形成されていた。確実な政権樹立にはまず対外戦争決着をつけるべきと考えたスッラは、同じコルネリウス一門出身閥族派ルキウス・コルネリウス・キンナ後事任せてミトリダテス戦争復帰した

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