ローマ進軍
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ローマ進軍(ローマしんぐん、伊: Marcia su Roma)とは、1922年10月にイタリア王国で起きた、ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党および民兵組織「黒シャツ隊」による、政権獲得のためのクーデターのことである[1]。
ムッソリーニは直接行動による政権奪取を目指していたが、軍によるさまざまな妨害活動や党員間の連絡の不行き届きなどから、計画の多くが未遂に終わり、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世よりムッソリーニに組閣の命が下ったことで、実質的に無血クーデターとなった。
概要
1922年10月24日、ファシスト党はナポリで党大会を開き、黒シャツ隊を集結させ、首都ローマへの進軍を命じた[1]。また、軍の一部もひそかに協力姿勢を見せた。ルイージ・ファクタ内閣や軍部の主流派は、列車で向かってくる反乱部隊に対し、武力による制圧、つまり内戦によって解決しようと試みたが、戒厳令の発布を好まなかった国王によって退けられ、ファクタは辞任に追い込まれた[1]。それまでにムッソリーニは進軍の失敗を覚悟しており、スイスへの亡命の準備をしていたという。
10月29日、黒シャツ隊は首都ローマへ無血入城を果たし、国王は同日、ムッソリーニに組閣の大命を下した[1]。
影響
1年後の1923年11月、ドイツにてアドルフ・ヒトラー率いる国民社会主義ドイツ労働者党がローマ進軍を参考にミュンヘン一揆を起こすが、翌日には鎮圧され、ヒトラーも逮捕された。
1926年5月にポーランドでユゼフ・ピウスツキが起こした権威主義軍事クーデター「五月革命」も、ローマ進軍を研究した上で起こされたものだった。五月革命はピウスツキ軍と政府軍の間で激しい市街戦が生じているものの、こちらは数日でピウスツキ率いるクーデター側が勝利した。
このように各国のファシズム団体によるローマ進軍を模倣したクーデター事件が続発した。そのほとんどは未遂に終わるか、謀議の段階で摘発されている。
脚注
外部リンク
- The March on Rome entry at Tiscali reference.
関連項目
ローマ進軍
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「ルキウス・コルネリウス・スッラ」の記事における「ローマ進軍」の解説
スッラは狂ったように自分を攻撃したスルピキウスの死を願っていた。しかし、彼は既に奴隷に裏切られていた。スッラは自分の命令を守るため、その奴隷に自由を与えたが、すぐに彼をタルペーイアの岩から落とすよう命令した。この点ではスッラは公正だったと言えるだろう。 ウァレリウス・マクシムス『有名言行録』6.5.7 軍を掌握したスッラは、同僚執政官ポンペイウス・ルフスと共にローマに軍を向けた。元老院は2人のプラエトルを派遣してスッラに思いとどまるよう説得したが、その態度が不遜であったためファスケスを折られ、トガを引き裂かれて追い返された。マリウスは非正規軍を組織して準備していたが、スッラは正規6個軍団を率いており、夢にも吉兆が現れた。元老院は全ての権限をスッラに戻すと約束したが、スッラはローマに侵入し、非正規軍の抵抗があったため街に火をかけ蹂躙した。テルース神殿に追い詰められたマリウスは解放奴隷を味方につけようとしたが、スッラの手が迫ったために脱出した。 スッラは元老院を招集してスルピキウスやマリウスに公敵宣告したが、スルピキウスは既に自身の従者に殺されていた。この時、スカエウォラ・アウグルだけがスッラの強要に抵抗したという。しかし市民の反発は予想以上で、スッラの身内の幾人かが政務官選挙で落選した。スッラは民衆の反発を気にして形式的な自由を認め、反対派のルキウス・コルネリウス・キンナを翌年の執政官に据えることにした。キンナは石を持ってスッラの政策を継承する事を誓い、この誓いを破ればこの石のように追放されるであろうと言って、壇上から投げ捨てた。誓いに反してキンナは就任するとすぐ護民官にスッラを告発させたが、スッラはそれを無視してミトリダテス戦争へ出発した。出発前にアウグルに就任している。 なお、スッラのローマ進軍は史上初のことで、従来はマリウスの軍制改革によってローマ軍が司令官の私兵化した現れとされてきた。しかし以前にも護民官ガイウス・グラックスに対して元老院最終決議が下され、執政官が治安維持の名目で鎮圧した前例があり、その図式と同じという指摘もある。またスッラ配下の士官たちでスッラに同行したのは一人だけ(義理の親戚であるルキウス・リキニウス・ルクッルス)であり、一概に私兵化の結果とは言えない。
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ローマ進軍
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スッラの使者への侮蔑はローマ進軍という行為への決断の証であったが、当のスッラも前日まで大罪を犯すかどうか悩んだ。だが枕元に自らの行為を賞賛する女神が訪れる夢に励まされ、攻撃を命令したという。対するマリウスは浮き足立つ民衆派の議員をまとめて、ローマ防衛の準備を大急ぎで進めていた。 未明にローマへたどり着いたスッラ軍に元老院は城門を空けてスッラ達を招き入れた。彼らはスッラの全ての権限が復権される事を約束し、その代わりに陣営を設営するのみに留め、即時攻撃を取りやめる事を要請した。スッラはこれを受け入れる素振りを見せたが、交渉役がエスクイリヌス城壁を通ろうとした所で猛然と攻撃を開始して、一挙に城門を突破した。 スッラの騙し討ちにローマ市民は激怒して自ら武装してスッラ軍に襲い掛かり、また武器を持たぬ者は屋根瓦を兵士達へ投げつけた。予想以上の抵抗に軍団兵は市民兵に苦戦を強いられ、スッラは火矢を当たりかまわず家屋へ打ち込む様に命令を出した。火は瞬く間に家屋へ燃え移り、市街地は大火災に見舞われて大勢のローマ市民が犠牲となった。その過程で民衆派と閥族派を区別する考慮はスッラには全く無かった。攻撃時、奴隷達に防衛軍への参加を促していたマリウスはテルス神殿に逃れ、そこからローマ国外へと亡命した。 マリウスと一族が逃げ去った後、スルピキウスは使用人によって暗殺された。スッラはマリウスに懸賞金を賭けてローマ全土で行方を捜させた。スッラは元老院への主導権を取り戻したが、暴挙の影響から元老院内には少なからぬ反スッラ派が形成されていた。確実な政権樹立にはまず対外戦争に決着をつけるべきと考えたスッラは、同じコルネリウス一門出身で閥族派のルキウス・コルネリウス・キンナに後事を任せてミトリダテス戦争へ復帰した。
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