ローマ追放と死(1606年 - 1610年)
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「ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ」の記事における「ローマ追放と死(1606年 - 1610年)」の解説
カラヴァッジョは激動の生涯を送った。裏社会の住人たちの間でさえ喧嘩っ早いという悪評があり、カラバッジョの不品行が当時の警備記録や訴訟裁判記録に数ページにわたって記載されている。そしてカラヴァッジョは、1606年5月29日におそらく故意ではないとはいえ、ウンブリアのテルニ出身のラヌッチオ・トマゾーニという若者を殺害してしまう。それまでのカラヴァッジョの放埓な言動は、有力者に多くパトロンがいたことによって大目に見られていたが、このときはパトロンたちもカラヴァッジョを庇うことはなかった。殺人犯として指名手配されたカラヴァッジョはローマを逃げ出し、ローマの司法権が及ばないナポリで有力貴族コロンナ家の庇護を受けた。カラヴァッジョとコロンナ家との関係は『ロザリオの聖母 (Madonna of the Rosary)』(美術史美術館所蔵、1607年)など、主要な教会からの絵画制作依頼に大きく寄与している。 『慈悲の七つの行い』、『キリストの鞭打ち』などの作品によりナポリでも成功を収めたカラヴァッジョだったが、数か月後には、おそらくマルタ騎士団の騎士団総長アロフ・ド・ウィニャクール (en:Alof de Wignacourt) の庇護を求めて、ナポリからマルタへと移った。ド・ウィニャクールは、このイタリア有数の高名な画家を騎士団の公式画家とすることは利益になると判断してカラヴァッジョを騎士団の騎士として迎え入れ、カラヴァッジョを喜ばせた。マルタ滞在時にカラヴァッジョが描いた主要な作品には、唯一カラヴァッジョ自身の署名が残る『洗礼者聖ヨハネの斬首 (Beheading of Saint John the Baptist)』(聖ヨハネ准司教座聖堂所蔵、1608年)や、『アロフ・ド・ヴィニャクールと小姓の肖像 (Portrait of Alof de Wignacourt and his Page)』(ルーブル美術館所蔵、1607年 - 1608年)を始め当時の主要なマルタ聖堂騎士団員を描いた肖像画などがある。 遅くとも1608年8月終わりまでに、カラヴァッジョは逮捕され投獄されている。このマルタ時代のカラヴァッジョを取り巻く急激な環境変化は長く議論の的になっており、近年の研究では、カラヴァッジョがマルタでも喧嘩沙汰を起こし、騎士団宿舎の扉を叩き壊したうえに騎士の一人に重傷を負わせたためだとされている。騎士団員たちによって投獄されたカラヴァッジョは、同年11月に「恥ずべき卑劣な男」であるとして騎士団から除名されたが、脱獄してマルタから逃れた。 マルタを後にしたカラヴァッジョは、昔からの知り合いで結婚後シラクサに住んでいたマリオ・ ミンニーティを頼ってシチリアへと逃れた。二人は共にシラクサを離れてメッシーナへと出発し、最終的にシチリアの首都パレルモに到着している。カラヴァッジョは旅先の各都市でも画家としての名声を勝ち取り、多額の謝礼を伴う絵画制作の依頼を受けたため、この旅はいわば大名旅行ともいえる贅沢なものになった。このシチリア時代の作品には『聖ルチアの埋葬 (Burial of St. Lucy)』(サンタ・ルチア・アラ・バディア教会所蔵、1608年)、『ラザロの復活 (The Raising of Lazarus)』(メッシーナ州立美術館所蔵、1609年ごろ)、『羊飼いの礼拝 (Adoration of the Shepherds)』(メッシーナ州立美術館所蔵、1609年)があげられる。カラヴァッジョの作風は進化し続けており、このころの作品は描かれている人物が身にまとう織りの粗い衣服が、何も描かれていない広い背景から浮き出て見えるかのように表現されている。「カラヴァッジョがシチリアで描いた素晴らしい祭壇画は陰になっている部分が多く、薄暗く広い背景に数人のみすぼらしい人物が描かれている構図という他にあまり例のない作品になっている。人間の絶望的なまでの不安と心の弱さを表現すると同時に、人間が代々受け継いできた優しさ、謙虚さ、柔和さなどが未だ失われていないさまを描き出している」といわれている。一方でカラヴァッジョの不品行は改まってはおらず、眠っているときでさえ完全武装し、他人の作品を根拠なく誹謗してその絵画を引き裂いたり、地元の画家たちを嘲笑していたという当時の記録が残っている。 カラヴァッジョはシチリアに9か月滞在した後に再びナポリへと戻っている。ナポリ帰還は、最初期の伝記によればカラヴァッジョがシチリアで常に敵対者に付け狙われており、ローマ教皇の許しを得てローマに戻れるようになるまでは、知己である有力貴族コロンナ家が大きな権力を持つナポリがもっとも安全であると考えためである。ナポリ帰還後の作品として『聖ペテロの否認 (The Denial of Saint Peter)』(メトロポリタン美術館所蔵、1610年ごろ)、『洗礼者ヨハネ (John the Baptist)』(ボルゲーゼ美術館所蔵、1610年ごろ)、そして遺作となった『聖ウルスラの殉教 (The Martyrdom of Saint Ursula)』(インテーザ・サンパオロ銀行所有、1610年)がある。特に『聖ウルスラの殉教』は、フン族の王が放った矢が聖ウルスラの胸を貫く瞬間を描いた奔放かつ印象的な筆使いの絵画で、それまでの絵画が持ち得なかった躍動感にあふれた作品になっている。 カラヴァッジョは安全な場所だと思っていたナポリで襲撃を受けた。犯人は不明で、ローマでは「有名な芸術家」カラヴァッジョが殺されたという記録が残っているが、これは誤報でありカラヴァッジョは顔に重傷を負ったものの生命に別状はなかった。『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ (Salome with the Head of John the Baptist (Madrid))』(マドリード王宮、1609年ごろ)の大皿に乗った生首は自身の頭部を描いたもので、カラヴァッジョはこの作品をマルタでの不品行への許しを請うためにマルタ騎士団長ド・ウィニャクールへと贈っている。『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』とおそらく平行して『ゴリアテの首を持つダビデ (David with the Head of Goliath)』(ボルゲーゼ美術館、1609年)も描いている。若きダビデが不思議な悲しみの表情で巨人ゴリアテの切断された頭部を見つめている作品で、この絵画に描かれているゴリアテの頭部もカラヴァッジョ自身の自画像である。カラヴァッジョはこの『ゴリアテの首を持つダビデ』をローマ教皇パウルス5世の甥で、罪人への恩赦特権を持つ悪名高き美術愛好家の枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼ (en:Scipione Borghese) への贈答絵画にするつもりだった。 1610年の夏にカラヴァッジョは、奔走してくれたローマの有力者たちのおかげで近々発布される予定だった恩赦を受けるために北方へと向かう船に乗り込んだ。このときカラヴァッジョは枢機卿シピオーネへの返礼品として3点の絵画を持参していた。この後カラヴァッジョに何があったのかの記録が非常に混乱、錯綜しており、いずれも推測の域を出ない。わずかに事実だといえることは、7月28日のローマからウルビーノ公爵家へ宛てた速報手記 (en:Avviso) にカラヴァッジョが死去したという記事が掲載されており、3日後の別の速報手記にカラヴァッジョがナポリからローマへと向かう旅の途中で熱病のために死去したというものである。カラヴァッジョの友人の詩人が後に7月18日をカラヴァッジョの命日であるとしており、近年の研究で同じく7月18日にトスカーナ大公国のポルト・エルコレで熱病により死去したという証拠が見つかったと主張する美術史家もいる。 2010年にポルト・エルコレの教会で人骨が発見され、この骨はまずカラヴァッジョのものに間違いないだろうと考えられている。この発見から1年以上かけてDNA鑑定、放射性炭素年代測定など様々な科学的鑑定が行われた。発見された人骨からは高濃度の鉛が検出されており、この人骨がカラヴァッジョのものであるならば鉛中毒で死去した可能性が高い。当時の顔料には多くの鉛が含まれ、鉛中毒はいわば画家の職業病だった。さらにカラヴァッジョは非常に放埓な生活を送っており、このことも鉛中毒に悪影響を及ぼしたと考えられる。
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