ローマ追放と死とは? わかりやすく解説

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ローマ追放と死(1606年 - 1610年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 09:27 UTC 版)

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ」の記事における「ローマ追放と死(1606年 - 1610年)」の解説

カラヴァッジョ激動生涯送った裏社会住人たちの間でさえ喧嘩っ早いという悪評があり、カラバッジョ不品行当時警備記録訴訟裁判記録に数ページわたって記載されている。そしてカラヴァッジョは、1606年5月29日におそらく故意ではないとはいえウンブリアテルニ出身のラヌッチオ・トマゾーニという若者殺害してしまう。それまでカラヴァッジョ放埓言動は、有力者多くパトロンがいたことによって大目に見られていたが、このときはパトロンたちもカラヴァッジョ庇うことはなかった。殺人犯として指名手配されカラヴァッジョローマ逃げ出しローマ司法権及ばないナポリで有力貴族コロンナ家庇護受けたカラヴァッジョコロンナ家との関係は『ロザリオの聖母 (Madonna of the Rosary)』(美術史美術館所蔵1607年)など、主要な教会からの絵画制作依頼大きく寄与している。 『慈悲七つ行い』、『キリストの鞭打ち』などの作品によりナポリでも成功収めたカラヴァッジョだったが、数か月後には、おそらくマルタ騎士団騎士団総長アロフ・ド・ウィニャクール (en:Alof de Wignacourt) の庇護求めてナポリからマルタへと移った。ド・ウィニャクールは、このイタリア有数高名な画家騎士団の公式画家とすることは利益になると判断してカラヴァッジョ騎士団騎士として迎え入れカラヴァッジョ喜ばせたマルタ滞在時にカラヴァッジョ描いた主要な作品には、唯一カラヴァッジョ自身署名が残る『洗礼者聖ヨハネ斬首 (Beheading of Saint John the Baptist)』(聖ヨハネ准司教座聖堂所蔵1608年)や、『アロフ・ド・ヴィニャクールと小姓の肖像 (Portrait of Alof de Wignacourt and his Page)』(ルーブル美術館所蔵1607年 - 1608年)を始め当時主要なマルタ聖堂騎士団員描いた肖像画などがある。 遅くとも1608年8月終わりまでに、カラヴァッジョ逮捕され投獄されている。このマルタ時代カラヴァッジョ取り巻急激な環境変化長く議論の的になっており、近年の研究では、カラヴァッジョマルタでも喧嘩沙汰起こし騎士団宿舎の扉を叩き壊したうえに騎士一人重傷を負わせたためだとされている。騎士団員たちによって投獄されカラヴァッジョは、同年11月に「恥ずべき卑劣な男」であるとして騎士団から除名されたが、脱獄しマルタから逃れたマルタを後にしたカラヴァッジョは、昔からの知り合い結婚シラクサ住んでいたマリオ・ ミンニーティを頼ってシチリアへと逃れた二人は共にシラクサ離れてメッシーナへと出発し最終的にシチリア首都パレルモ到着している。カラヴァッジョ旅先の各都市でも画家としての名声勝ち取り多額謝礼を伴う絵画制作依頼受けたため、この旅はいわば大名旅行ともいえる贅沢なものになった。このシチリア時代作品には『聖ルチアの埋葬 (Burial of St. Lucy)』(サンタ・ルチア・アラ・バディア教会所1608年)、『ラザロの復活 (The Raising of Lazarus)』(メッシーナ州立美術館所蔵1609年ごろ)、『羊飼いの礼拝 (Adoration of the Shepherds)』(メッシーナ州立美術館所蔵1609年)があげられるカラヴァッジョ作風進化し続けており、このころ作品描かれている人物身にまとう織りの粗い衣服が、何も描かれていない広い背景から浮き出て見えかのように表現されている。「カラヴァッジョシチリア描いた素晴らし祭壇画陰になっている部分多く薄暗く広い背景数人のみすぼらしい人物描かれている構図という他にあまり例のない作品になっている人間絶望的なまでの不安と心の弱さ表現する同時に人間代々受け継いできた優しさ謙虚さ柔和さなどが未だ失われていないさまを描き出している」といわれている。一方でカラヴァッジョ不品行改まってはおらず眠っているときでさえ完全武装し、他人作品根拠なく誹謗してその絵画引き裂いたり、地元画家たち嘲笑していたという当時の記録残っている。 カラヴァッジョシチリア9か月滞在した後に再びナポリへと戻っている。ナポリ帰還は、最初期伝記によればカラヴァッジョシチリアで常に敵対者に付け狙われており、ローマ教皇許し得てローマ戻れるようになるまでは、知己である有力貴族コロンナ家大きな権力を持つナポリがもっとも安全であると考えためである。ナポリ帰還後作品として『聖ペテロの否認 (The Denial of Saint Peter)』(メトロポリタン美術館所蔵1610年ごろ)、『洗礼者ヨハネ (John the Baptist)』(ボルゲーゼ美術館所蔵1610年ごろ)、そして遺作となった聖ウルスラ殉教 (The Martyrdom of Saint Ursula)』(インテーザ・サンパオロ銀行所有1610年)がある。特に『聖ウルスラ殉教』は、フン族の王が放った矢が聖ウルスラの胸を貫く瞬間描いた奔放かつ印象的な筆使い絵画で、それまで絵画持ち得なかった躍動感あふれた作品になっているカラヴァッジョ安全な場所だと思っていたナポリ襲撃受けた犯人不明で、ローマでは「有名な芸術家カラヴァッジョ殺されたという記録残っているが、これは誤報でありカラヴァッジョは顔に重傷負ったものの生命別状はなかった。『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ (Salome with the Head of John the Baptist (Madrid))』(マドリード王宮1609年ごろ)の大皿乗った生首自身頭部描いたもので、カラヴァッジョはこの作品マルタでの不品行への許しを請うためにマルタ騎士団長ド・ウィニャクールへと贈っている。『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』とおそらく平行してゴリアテの首を持つダビデ (David with the Head of Goliath)』(ボルゲーゼ美術館1609年)も描いている。若きダビデ不思議な悲しみ表情巨人ゴリアテ切断され頭部を見つめている作品で、この絵画描かれているゴリアテ頭部カラヴァッジョ自身自画像である。カラヴァッジョはこの『ゴリアテの首を持つダビデ』をローマ教皇パウルス5世の甥で、罪人への恩赦特権を持つ悪名高き美術愛好家枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼ (en:Scipione Borghese) への贈答絵画にするつもりだった。 1610年の夏にカラヴァッジョは、奔走してくれたローマ有力者たちのおかげで近々発布され予定だった恩赦を受けるために北方へと向かう船に乗り込んだ。このときカラヴァッジョ枢機卿シピオーネへの返礼品として3点絵画持参していた。この後カラヴァッジョ何があったのかの記録が非常に混乱錯綜しており、いずれも推測の域を出ないわずかに事実といえることは、7月28日ローマからウルビーノ公爵家へ宛てた速報手記 (en:Avviso) にカラヴァッジョ死去したという記事掲載されており、3日後の別の速報手記カラヴァッジョナポリからローマへと向かう旅の途中で熱病のために死去したというものであるカラヴァッジョ友人詩人が後に7月18日カラヴァッジョ命日であるとしており、近年の研究同じく7月18日トスカーナ大公国のポルト・エルコレで熱病により死去したという証拠見つかった主張する美術史家もいる。 2010年にポルト・エルコレの教会人骨発見され、この骨はまずカラヴァッジョのものに間違いないだろうと考えられている。この発見から1年以上かけてDNA鑑定放射性炭素年代測定など様々な科学的鑑定が行われた。発見され人骨からは高濃度の鉛が検出されており、この人骨がカラヴァッジョのものであるならば鉛中毒死去した可能性が高い。当時顔料には多くの鉛が含まれ鉛中毒はいわば画家職業病だった。さらにカラヴァッジョは非常に放埓な生活を送っており、このことも鉛中毒悪影響及ぼした考えられる

※この「ローマ追放と死(1606年 - 1610年)」の解説は、「ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ」の解説の一部です。
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