ローマ軍司令官として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 18:17 UTC 版)
394年に主君テオドシウス1世が東西ローマを統一すると、テオドシウスによってローマ軍の総司令官(マギステル・ウトリウスクァエ・ミリタエ)に任命される。翌395年にテオドシウス1世が死去すると帝国の東半分は長男アルカディウス、西半分は次男ホノリウスに移譲され、彼は西ローマ帝国の皇帝となったホノリウスの後見人を務めた。 この年、前述のアラリックが正式に王として即位、アラリック1世となりローマとの同盟を破棄してトラキアで略奪を行ったため、スティリコは東西ローマ軍を率いてメディオラヌムを包囲した西ゴートの軍を撃退する。続いてスティリコはテッサリアでアラリックの軍勢を叩こうと進軍したが、アルカディウス帝の側近、親衛隊長官であったルフィヌスの画策により決戦直前にアルカディウス帝が東ローマの部隊の撤退を命じたため、スティリコも戦うことなく撤退した。 397年にはアラリックを再びマケドニアで敗るも、アラリックが周辺の山岳に敗走、捕らえる事ができなかった。そして同年にアフリカで勃発したギルドーの反乱を鎮圧。続いてラエティアでヴァンダル族に対する戦役を展開した。 しかしスティリコの勢力伸長を嫌った東ローマのエウトロピウスは、スティリコの勢力を削ぐ為に398年、アラリックを東西ローマの境界地域の軍事の責任者であるイリュリクム総司令官に任命し、アラリックを西ローマに侵入させた。 401年、アラリックに率いられたゴート族がミラノを包囲すると、スティリコはブリタンニアやガリアに駐屯していた兵力を集めて対抗し、402年にポレンティアの戦い、ヴェローナの戦いでアラリックに勝利した。
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