親衛隊全国指導者
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親衛隊全国指導者(しんえいたいぜんこくしどうしゃ、独: Reichsführer-SS)は、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の親衛隊における最高指導者の称号。1926年に新設された称号であり、階級名ではないが、ドイツ国防軍における元帥にほぼ匹敵する地位である。前身である1925年から1926年の親衛隊長は「Oberleiter-SS(親衛隊上級指導者)」と呼ばれた。
- 1 親衛隊全国指導者とは
- 2 親衛隊全国指導者の概要
親衛隊長官
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「ルキウス・アエリウス・セイヤヌス」の記事における「親衛隊長官」の解説
父セイユス・ストラボはアウグストゥスの下で親衛隊長官を任命されるなど信用を獲得しており、息子であるセイヤヌスも若い頃、元首後継者候補であったガイウス・カエサルの東方任務の同行に選ばれている。その後ティベリウスと親交を持ち、アウグストゥス没後には父と共同の親衛隊長官に任じられた。のちには単独の親衛隊長官となっている。 ティベリウスが元首に就任して直後の紀元14年にパンノニアで暴動が起こると、ティベリウスよりその対処を任された小ドルススに助言者として同行し、軍団の沈静化に成功している。 その後もセイヤヌスは、親衛隊の兵士たちを掌握するなど有能さを証明し続け、内向的なティベリウスから確固とした信頼を勝ち取り、その右腕として重用されていった。20年には自らの娘をクラウディウスの息子クラウディウス・ドルススと婚約させ、元首一家と婚姻関係を結んだ。この婚約はその成立直後、クラウディウス・ドルススが急死したため実現することはなかったが、この頃より徐々に、ティベリウスの長男小ドルススなど拡大するセイヤヌスの勢力を危惧する者が増えていった。同様にセイヤヌスも、自らの権勢欲のためドルススを疎み始めていた。 22年にティベリウスは火事で崩壊していたポンペイウス劇場の再建を発表したが、同時にその火事の鎮火にあたってのセイヤヌスの働きも賞賛した。これを受けて元老院は、再建されたポンペイウス劇場の中にセイヤヌスの立像を設置することを決議した。また同じ頃、ティベリウスはアフリカで功績のあったブラエススに対して凱旋将軍顕彰を送ったが、このときもやはりブラエススがセイヤヌスの叔父であるゆえにとセイヤヌスに言及した。 セイヤヌスはそれまで大隊単位でローマ市内に3ヶ所、郊外に6ヶ所と分かれて駐屯していた親衛隊を1ヶ所に集中させた。これは緊急時の対応を迅速に行なえるようにするものであると同時に、自身の掌握していた親衛隊の力と威信とを高めようとするものでもあった。このとき新設された親衛隊兵舎カストラ・プラエトリアはローマ市の北東に置かれ、レンガとコンクリートで造られた堅牢な建物はのちにローマを囲む城壁の一部に組み込まれた。
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