親衛隊全国指導者
親衛隊全国指導者(しんえいたいぜんこくしどうしゃ、独: Reichsführer-SS)は、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の親衛隊(SS)における最高指揮官の称号。1926年に新設された称号であり、階級名ではないが、ドイツ国防軍における元帥にほぼ匹敵する地位である。前身である1925年から1926年のSSの最高指揮官は「Oberleiter-SS(親衛隊上級指導者)」と呼ばれた。
概要
「Reichsführer(ライヒスフューラー)」の語は、党最高指導部の役職である「Reichsleiter(ライヒスライター)」とは異なるが、いずれも日本語では全国指導者と訳されることが多い。これに従うと親衛隊の略号である「SS」をつけた「Reichsführer-SS」は「親衛隊全国指導者」となる。また、「親衛隊長官」や「親衛隊隊長」「SSライヒ指導者」と訳される場合もある。英米の研究書では「National leader of the SS」と訳されることもある。
設立当初は、突撃隊に属する一組織である親衛隊の長という程度の意味しかもたなかったが、1929年のハインリヒ・ヒムラー就任と、その後の親衛隊の拡大は、親衛隊全国指導者自体の地位も著しく上昇させた。1934年の長いナイフの夜の後の7月20日、親衛隊が突撃隊から独立したことに伴い、8月23日に親衛隊全国指導者は党の最高指導部のメンバーとなり、ライヒスライターと同等の扱いを受けるようになった。
本来党の職責であり、国務大臣や国防軍司令官といった国家の職ではなかったが、ナチ党の権力掌握およびヒムラーと親衛隊の勢力拡張により、国家と党の役割が混然としていたナチス・ドイツの体制においては、最高幹部の職位として扱われた。1936年6月17日の「帝国内務省指揮下の全ドイツ警察長官設置に関する命令」では、「親衛隊全国指導者であるヒムラー」や「親衛隊全国指導者」に全ドイツ警察の指揮権が受任されている。
親衛隊階級としては、親衛隊上級大将の上、ドイツ国防軍における元帥と同級と位置づけられることもある。また、1944年には親衛隊階級としての「民族元帥(Volksmarschall)」の設置が検討されたこともあるが、ヒムラーは対象となっておらず、設置がなされることもなかった。
階級章
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襟章
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肩章
歴代の親衛隊全国指導者

- 親衛隊上級指導者 (Oberleiter-SS)
- ユリウス・シュレック(1925年-1926年)
- ヨーゼフ・ベルヒトルト(1926年)
- 親衛隊全国指導者 (Reichsführer des SS)
- ヨーゼフ・ベルヒトルト(1926年-1927年)
- エアハルト・ハイデン(1927年-1929年)
- ハインリヒ・ヒムラー(1929年-1945年)
- カール・ハンケ(1945年、ヒトラーの遺書による任命)
関連項目
- 親衛隊階級
- 親衛隊_(ナチス)
- 親衛隊全国指導者友の会
- 親衛隊全国指導者個人幕僚部
- 元帥 (ドイツ)
- Category:親衛隊将軍
- 第16SS装甲擲弾兵師団 - 部隊称号として「ライヒスフューラー・SS」を冠した。
- 親衛隊全国指導者名誉長剣
親衛隊長官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 14:30 UTC 版)
「ルキウス・アエリウス・セイヤヌス」の記事における「親衛隊長官」の解説
父セイユス・ストラボはアウグストゥスの下で親衛隊長官を任命されるなど信用を獲得しており、息子であるセイヤヌスも若い頃、元首後継者候補であったガイウス・カエサルの東方任務の同行に選ばれている。その後ティベリウスと親交を持ち、アウグストゥス没後には父と共同の親衛隊長官に任じられた。のちには単独の親衛隊長官となっている。 ティベリウスが元首に就任して直後の紀元14年にパンノニアで暴動が起こると、ティベリウスよりその対処を任された小ドルススに助言者として同行し、軍団の沈静化に成功している。 その後もセイヤヌスは、親衛隊の兵士たちを掌握するなど有能さを証明し続け、内向的なティベリウスから確固とした信頼を勝ち取り、その右腕として重用されていった。20年には自らの娘をクラウディウスの息子クラウディウス・ドルススと婚約させ、元首一家と婚姻関係を結んだ。この婚約はその成立直後、クラウディウス・ドルススが急死したため実現することはなかったが、この頃より徐々に、ティベリウスの長男小ドルススなど拡大するセイヤヌスの勢力を危惧する者が増えていった。同様にセイヤヌスも、自らの権勢欲のためドルススを疎み始めていた。 22年にティベリウスは火事で崩壊していたポンペイウス劇場の再建を発表したが、同時にその火事の鎮火にあたってのセイヤヌスの働きも賞賛した。これを受けて元老院は、再建されたポンペイウス劇場の中にセイヤヌスの立像を設置することを決議した。また同じ頃、ティベリウスはアフリカで功績のあったブラエススに対して凱旋将軍顕彰を送ったが、このときもやはりブラエススがセイヤヌスの叔父であるゆえにとセイヤヌスに言及した。 セイヤヌスはそれまで大隊単位でローマ市内に3ヶ所、郊外に6ヶ所と分かれて駐屯していた親衛隊を1ヶ所に集中させた。これは緊急時の対応を迅速に行なえるようにするものであると同時に、自身の掌握していた親衛隊の力と威信とを高めようとするものでもあった。このとき新設された親衛隊兵舎カストラ・プラエトリアはローマ市の北東に置かれ、レンガとコンクリートで造られた堅牢な建物はのちにローマを囲む城壁の一部に組み込まれた。
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