親衛隊高官時代
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「ヴェルナー・ベスト」の記事における「親衛隊高官時代」の解説
ベストはボックスハイム文書事件で引責辞任した直後の1931年11月13日に SS に入隊している(隊員番号23,377)。ベストがヘッセンでの役職を追われた後、ハインリヒ・ヒムラーやラインハルト・ハイドリヒに目をかけられてミュンヘンの親衛隊情報部 (SD) 本部に招かれた。上官のヒムラーとハイドリヒは1934年4月に首都ベルリンへ移っていったが、ベストはミュンヘンに残留し、南ドイツの SD の司令官を務めていた。6月下旬の長いナイフの夜(レーム事件)の際にもベストはミュンヘンにあった。ミュンヘンは長いナイフの夜の際の主要舞台となったため、ベストも粛清に深く関与することとなった。ヘッセンのシュターデルハイム監獄ではエルンスト・レーム以下突撃隊の幹部が大量に銃殺されている。事件後の7月4日に親衛隊中佐に昇進。 1935年1月からベルリンのゲシュタポ本部へ移動となった。この頃のゲシュタポはヘルマン・ゲーリングが長官(ただし形式的。1935年11月から形式的にもヒムラーが長官)であり、ヒムラーが長官代理、ハイドリヒが政治警察部(2部)部長をしていた。ベストはハイドリヒの代理に任じられた。1936年6月にヒムラーは全ドイツ警察長官となった。この権限に基づき、ヒムラーはゲシュタポを含む全ドイツの政治警察を保安警察 (SiPo) の下にまとめ、その長官にハイドリヒを据えた。あわせてベストも保安警察長官代理に就任し、保安警察内の行政・法制局の局長、および政治警察局第3部防諜警察部の部長にも任じられた。さらに1939年9月にハイドリヒが国家保安本部 (RSHA) を誕生させてその長官となった際にベストは国家保安本部第1局(人事局)局長に就任する。しかしベストは法学の素養のある者を好んで採用する癖があり、「インテリ」嫌いの上司のハイドリヒや第4局(ゲシュタポ局)局長ハインリヒ・ミュラーと潜在的に対立するようになっていった。徐々にベストは国家保安本部における役割を制限されて干されていった。
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