親衛隊髑髏部隊指揮官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 23:17 UTC 版)
「テオドール・アイケ」の記事における「親衛隊髑髏部隊指揮官」の解説
長いナイフの夜事件後の1934年7月4日、ヒムラーはアイケを全強制収容所の総監を行う強制収容所監視官(Inspekteur der Konzentrationslager)に任じられ、また強制収容所監視部隊の司令官となった。この部隊は「髑髏部隊」と通称されていたが、1936年に正式に親衛隊髑髏部隊(SS-Totenkopfverbände)の名称が与えられ、アイケは親衛隊髑髏部隊総監(Generalinspekteur der SS-Totenkopfverbände)の肩書を得た。 アイケは全国に散らばっていた強制収容所をダッハウ強制収容所、ザクセンハウゼン強制収容所、ブーヘンヴァルト強制収容所、リヒテンブルク強制収容所(de:KZ Lichtenburg)に集中統合させた。また親衛隊髑髏部隊の拡張を図り、当初大隊編成だった親衛隊髑髏部隊を1937年4月に3つの髑髏連隊へ再編成させた。さらに翌1938年にオーストリア併合があるとオーストリアの強制収容所の警備部隊として4番目の髑髏連隊を設立している。 アイケは自らが「反社会的」な経歴を持っていたためか、髑髏部隊隊員を「反社会的」な者まで広く採用した。無学な農場労働者や失業者の他、不平分子、ごろつきなどからも次々と採用された。彼らは自らを拾ってくれたボスのアイケの命令にだけ従い、親衛隊の規律などほとんど気に留めなかったという。アイケが軍隊的な物を嫌っていたこともあり、親衛隊髑髏部隊は親衛隊の中でも特殊な存在となっていった。 アイケは髑髏部隊員たちに囚人には厳しく接するよう常に訓示していた。後にアウシュヴィッツ強制収容所所長となるルドルフ・フェルディナント・ヘスも「国家の敵に憐れみを持つ者はSSに値しない。そういう弱い者は我が隊ではなく修道院へ閉じこもればよい。我が隊が用がある者は情け容赦なく命令を遂行する者だけだ。髑髏の徽章は伊達で付けているのではない。」というアイケの訓示を受けたと述べている。一方でヴィルヘルム・フリックが大臣を務めるドイツ内務省は SSの行き過ぎを常に警戒しており、また保安警察長官ラインハルト・ハイドリヒも強制収容所経営権を狙って強制収容所で行われる囚人虐待に目を光らせていたため、一応アイケも1937年2月に囚人虐待の禁止命令を出している。 アイケは第二次世界大戦開戦で出征するまでハインリヒ・ヒムラーの直属的立場を維持し続け、強制収容所を自律的に運営し続けた。
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