アウシュヴィッツ強制収容所所長
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「ルドルフ・フェルディナント・ヘス」の記事における「アウシュヴィッツ強制収容所所長」の解説
第二次世界大戦が開戦した後、1940年2月21日に旧ポーランドのオシフィエンチム(ドイツ名アウシュヴィッツ)にある元オーストリア=ハンガリー帝国軍砲兵隊兵舎を利用して防疫通過収容所を建設する計画が立てられた。1940年4月27日のヒムラーのアウシュヴィッツ収容所建設に関する命令に基づき、4月29日にヘスが初代所長に着任した。5月20日にまずドイツ人刑事犯30人が送りこまれ(彼らはカポに任じられた)、6月14日にはポーランド人政治犯728人が到着した。 独ソ戦を前に控えた1941年3月1日にハインリヒ・ヒムラーがアウシュヴィッツを訪問し、ヘスにアウシュヴィッツ収容所の収容数を3万人に増やし、さらに隣接する(ブジェジンカ)(ドイツ名ビルケナウ)にも10万人収容できる収容所を建設するよう命じた。ビルケナウの建設とアウシュヴィッツの拡張工事が行われ、1943年にはアウシュヴィッツ収容所に3万人、ビルケナウ収容所に14万人が収容されている状態になっていた。ちなみに、1941年7月末に脱走者が出た事から、無作為に選ばれた10名が餓死刑に処せられることになり、(妻子がいた)ポーランド人のフランツィシェク・ガヨウィニチェクが選ばれた際、カトリック教会の神父であったマキシミリアノ・コルベが彼の身代わりとして刑を受ける申し出を許可したのもこのヘスである。 1941年8月にヘスはヒムラーからユダヤ人絶滅計画を聞かされ、アウシュヴィッツをユダヤ人抹殺センターに改築せよとの命令を受けた。この命令を受けた時についてヘスは回顧録の中で「この命令には、何か異常な物、途方もない物があった。しかし命令という事が、この虐殺の措置を、私に正しい物と思わせた。当時、私はそれに何らかの熟慮を向けようとはしなかった。私は命令を受けた。だから実行しなければならなかった。」と書いている。 彼は直ちにアウシュヴィッツへ戻り、アウシュヴィッツに来たアドルフ・アイヒマンと共に虐殺の実行方法について話し合ったものの使用ガスの決定にまでは至らなかった。しかし、ヘスが公務旅行中に所長代理のカール・フリッチュが大量のソ連軍捕虜を使ってチクロンBによるガス殺実験を実行した。その報告を受けたヘスは他の絶滅収容所で使われていた一酸化炭素よりチクロンBの方が効果的であると判断し、これをガスとして使用する事を決定した。1941年10月からアウシュヴィッツ収容所でユダヤ人ガス虐殺が開始された。また1941年から1942年にかけてビルケナウ収容所の建設工事が進み、その中で1942年1月にビルケナウ周辺の農家にガス室が設置された。 アウシュヴィッツに到着したユダヤ人は労働できる者とできない者に選別され、労働力にならない者はガス室へ送られた。アウシュヴィッツでガス殺されたユダヤ人の犠牲者数については諸説あって定かではない。多い物ではソ連政府やポーランド政府が主張した400万人説から最小では63万人説まである。ヘスは250万人とニュルンベルク裁判で証言している。現在では約100万人ほどであろうというのが通説となっている。いずれにしてもアウシュヴィッツはホロコーストの最大の絶滅地であった。 1943年秋、SS調査委員会がアウシュヴィッツ強制収容所政治局に対して恣意的な囚人殺害や汚職の容疑で捜査を行った。ヘスは直接関与していなかったというが、管理責任を問われ、1943年11月10日に「ラインハルト作戦」の完了とともにアウシュヴィッツ所長を退任することになった。
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