アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ
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航空写真[疑問点 – ノート] 被収容者増を補うため、1941年10月、ブジェジンカ村に絶滅収容所として問題視される「第二強制収容所ビルケナウ」が開所。総面積は1.75平方キロメートル(東京ドーム約37個分)で、300以上の施設から成る。建設には主にソ連兵捕虜が従事したとされる。ピーク時の1944年には90,000人が収容された。そのほとんどはユダヤ人であり、このほかに主だったものとしてロマ・シンティが挙げられる。 アウシュヴィッツの象徴として映画や書籍などで見られる「強制収容所内まで延びる鉄道引込み線」は1944年5月に完成。被収容者から猟奪した品々を一時保管する倉庫や病院(人体実験の施設でもあったとされる)、防疫施設、防火用の貯水槽とされるプールがあった。ガス室は、農家を改造したものが2棟と複合施設(クレマトリウム)が4棟の計6棟があったとされるが、これらは被収容者の反乱や撤退時に行われた何かしらの証拠隠滅を目的とした破壊により原型をとどめていない。収容施設は、家族向けの監房、労働者向けの監房、女性専用の監房などに分けられており、1943年以降に建てられた南側の収容施設(全体の3分の1程度の棟数)は、湿地の上に満足な基礎工事もなく建てられており、特に粗末な作りであったと伝えられている。ここには主に女性が収容された。
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