アウシュヴィッツ潜入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 18:19 UTC 版)
「ヴィトルト・ピレツキ」の記事における「アウシュヴィッツ潜入」の解説
詳細は「:en:Witold's Report」を参照 1940年、ピレツキはオシフィエンチム(ドイツ名:アウシュヴィッツ)にあるアウシュヴィッツ強制収容所へ潜入し、内部から情報を集め収容者による抵抗組織を作ることを上官に提案した。この時点では、ドイツ人がどのようにこの収容所を運営していたかについてほとんど知られておらず、「アウシュヴィッツ」は死の収容所ではなく単なる捕虜収容所または大規模な刑務所と考えられていた。ピレツキの上官はこの計画を承認し、「トマシュ・セラフィンスキ Tomasz Serafiński」という偽の身分証明書をピレツキに与えた。1940年9月19日、一斉検挙が行われるのを承知の上でワルシャワ通りに向かい、ヴワディスワフ・バルトシェフスキ(後の外務大臣)ら市民2千人とともにドイツ軍に捕えられた。ピレツキは兵舎に2日間拘留されゴム製警棒で殴られるなどした後、アウシュヴィッツに送られ囚人番号4859を与えられた。収容中、ピレツキは国内軍(AK)中尉に昇進した[。ピレツキは様々な刑務をこなし肺炎にかかりながらもアウシュヴィッツに地下組織 (ZOW)を作り、やがて収容所内の多くの小規模抵抗組織がZOWに合流していった。 ZOWは、被収容者の士気高揚、外部からの情報提供、メンバーへの追加の食糧・衣服の供給、情報網の構築に加え、国内軍又は英国に拠点を置くポーランド第1独立パラシュート旅団によるアウシュヴィッツ解放作戦を行った際に収容所を制圧することを目的とした組織で、ポーランド地下組織に収容所に関する貴重な情報を提供した。1940年10月からはワルシャワに報告を送り、1941年3月にはポーランド・レジスタンスを介してロンドン、英国政府にも報告内容が転送された。1942年、ピレツキのレジスタンスグループは、収容所受刑者が作成した無線送信機を使用して、収容所へ到着した人数と死亡数および収容者の状態に関する詳細を放送した。この秘密ラジオ局は、アウシュヴィッツに「密輸」された部品を使用して7か月間で作られたという。1942年秋まで収容所内から放送されていたが「仲間のおしゃべり」によってラジオ局の存在がドイツ軍側に漏れることを懸念したピレツキの部下によって解体された。 ピレツキは、アウシュヴィッツの実態を知った連合国が武器およびパラシュート部隊をキャンプに投下するか、またはポーランド国内軍が外部から収容所を攻撃する日を待ち望んでいた。だが一方で、親衛隊少尉マキシミリアン・グラブナー率いる収容所ゲシュタポはZOWのメンバーの捜索に力を入れ、多くのメンバーが次々と殺害されていった。
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