囚人
(被収容者 から転送)
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犯罪学 と刑罰学 |
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囚人(しゅうじん)とは、主として受刑者、被疑者、被告人など、刑事施設に収容されている者を指す俗称である。かつては刑法第97条で「既決、未決ノ囚人」という語が用いられていたが、1995年(平成7年)の「刑法の一部を改正する法律」により、「囚人」の語は廃止された[1]。
待遇
刑事事件によって捕まった囚人は往々にして共通の囚人服を着せられる。また、時代によっては奉行所や主人などの管理者がわかるように焼印や入れ墨によってヒューマン・ブランディングが行われた。この印を隠すために入れ墨を行うものがいたため、ヒューマン・ブランディングを行わなくなった時代に至っても入れ墨を入れる人間に対しての偏見が残っている。
- 江戸時代
- どの奉行所で裁かれたかわかるように入れ墨が入れられたことと、その一覧が徳川幕府刑事図譜に残されている[2]。また、拘留施設は、大番屋と呼ばれる。当時の様子は、あまり資料として残っていないが、徳川幕府刑事図譜には「お縄につく」という表現にあるように縄で縛られている様子が描かれている。
各国における囚人
日本
日本の刑事収容施設法では、被収容者と呼ばれる。日本の囚人服は現在灰色のジャンパー・ズボン型でごく普通の作業着である。
脚注
関連項目
被収容者
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「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の記事における「被収容者」の解説
詳細は「:en:List of inmates and victims of Auschwitz」を参照 獄死した人物 アルマ・ロゼ:音楽家。アウシュヴィッツのオーケストラを指揮。1944年4月4日死亡。死因は中毒死。 アンネ・フランク:「アンネの日記」原作者。両親や姉を含む、隠れ家生活での同居人達とともに移送されて来て、アウシュヴィッツに2ヵ月間収容される。再移送先のベルゲン・ベルゼン強制収容所でチフスを患い1945年3月頃死亡。父オットーはアウシュヴィッツに留まったが、隠れ家生活での同居人中唯一の生還者となる。同居人の中では、ヘルマン・ファン・ペルスと母エーディトが、同収容所で死亡。 エーディト・シュタイン:聖職者。1942年8月9日、実姉とともにガス室で処刑。1998年、聖人に列せられた。 エルゼ・ベルク:オランダ人画家。夫のモミー・シュワルツ(英語版)とともに処刑された。 ギデオン・クライン:音楽家。アウシュヴィッツに収容されていた時期もある。1945年1月頃、強制収容所で死亡。 ドーラ・ジェルソン:女性歌手。1943年2月アウシュヴィッツにて死亡。 パヴェル・ハース:音楽家。テレジン強制収容所からアウシュヴィッツに移送。同強制収容所にて1944年10月17日死亡。 ハンス・クラーサ:音楽家。作品には児童オペラ「ブルンジバル」がある。チェコのテレジン強制収容所からアウシュヴィッツに移送直後の1944年10月17日、ガス室で処刑。 ハンナ・ブレイディ:「ハンナのかばん」主人公。チェコのテレジン強制収容所から実兄がいるアウシュヴィッツに移送される。13歳の幼い少女は労働力とは認められず、1944年頃処刑。 マキシミリアノ・コルベ:聖職者。脱走者が出たための連帯責任で餓死刑を宣告された被収容者の身代わりとなる。1982年、聖人に列せられる。 戦後解放された人物 イェヒエル・デ・ヌール:作家。ホロコーストの代弁者。 ヴィクトール・フランクル:精神科医、作家。治療法「ロゴセラピー」の提唱者。「夜と霧」「死と愛」などの著書がある。 エリ・ヴィーゼル:作家。ホロコーストに関する著作物など多数執筆。1986年ノーベル平和賞受賞。 カレル・アンチェル:音楽家。家族全員アウシュヴィッツに収容、カレルだけが生還。チェコ・フィルハーモニー管弦楽団、カナダ・トロント交響楽団の常任指揮者を歴任。 ケルテース・イムレ:作家、翻訳家。「運命ではなく」「挫折」などの著書がある。2002年、ノーベル文学賞受賞。 シモーヌ・ヴェイユ:政治家。 ジャック・トラミエル:企業家。渡米後、後に大手コンピュータ会社となるコモドールを創業。 ゾフィア・チコビアク:音楽家。アウシュヴィッツのオーケストラに参加。 プリーモ・レーヴィ:化学者、作家。「これが人間か」「休戦」などの著書がある。 マルセリーヌ・ロリダン=イヴェンス:女優、映画監督。アウシュヴィッツ、ベルゲン・ベルゼン強制収容所、テレジン強制収容所に収容された経験を持つ。「ある夏の記録」などで主演。 イスラエル・クリスタル: 元男性長寿世界一。家族はホロコーストで死亡、彼のみ生き残った。 脱獄した人物 イェジ・ビェレツキ(英語版) - 恋人シーラと共に脱出したが生き別れる。映画『あの日 あの時 愛の記憶』のモデル ヴィトルト・ピレツキ - 自ら収容され脱出したエージェント。3つのレポートで内情を連合国に伝えた。 カジミェシュ・ピエホフスキー(英語版) - ポーランド人兵士。3人の仲間と共に脱出。 ルドルフ・ヴルバ(英語版) - ユダヤ人生化学者。脱獄後、脱獄者アルフレート・ヴェッツラー(英語版)とヴルバ=ヴェッツラー・レポート(英語版)を作成、虐殺を伝えた。
※この「被収容者」の解説は、「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の解説の一部です。
「被収容者」を含む「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の記事については、「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の概要を参照ください。
「被収容者」の例文・使い方・用例・文例
- 被収容者全員が収容所から解放された。
- その他の被収容者の大部分は飢(き)餓(が),強制労働,感染症,個人的な処刑や医学実験で亡くなりました。
- それは「働けば自由になれる」という意味ですが,被収容者は十分な食事や休憩を与えられることなく働いていました。
- 被収容者の大部分は,アウシュヴィッツに到着するとすぐにそのままガス室へ送られました。
- これらは被収容者の靴の一部です。
- アウシュヴィッツ博物館は被収容者のめがね,トランク,衣服や義足を集めたものを展示しています。
- 被収容者は,ヨーロッパ中のさまざまな場所から列車でアウシュヴィッツに連れて来られました。
- 被収容者がアウシュヴィッツ第2収容所で列車を降りると,彼らは選別されました。
- この写真には被収容者用施設内のトイレが写っています。
- 衛生状態が悪く,多くの被収容者が感染症にかかって亡くなりました。
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