アウシュヴィッツとは? わかりやすく解説

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アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所

(アウシュヴィッツ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/26 03:53 UTC 版)

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(アウシュヴィッツ ビルケナウ きょうせいしゅうようじょ、ドイツ語: Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenauポーランド語: Obóz Koncentracyjny Auschwitz-Birkenau)は、ナチス・ドイツ第二次世界大戦中に国家を挙げて推進した人種差別による絶滅政策(ホロコースト)および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所である。収容者の90%がユダヤ人アシュケナジム)であった。


注釈

  1. ^ 「アウシュビッツ」と表記している日本の歴史教科書もある。たとえば、『中学社会 歴史』(教育出版株式会社。文部省検定済教科書。中学校社会科用。平成8年2月29日文部省検定済。平成10年1月10日印刷。平成10年1月20日発行。教科書番号17教出・歴史762)p 255では「また, 各国のユダヤ人は, ユダヤ人であるという理由だけでアウシュビッツなどの強制収容所に入れられて虐殺された。」と記載されている。
  2. ^ 東部併合地域から全てのユダヤ人と300-400万人に及ぶポーランド系ユダヤ人を移送し、入れ替わりに20 万のドイツ人を入植させる計画。
  3. ^ アンネの日記」「ハンナのかばん」などが著名。
  4. ^ 前記の収容理由以外に、労働者の一般募集も行い、工場などへ派遣していた。労働力不足が顕著になってからは、募集のほかに、強制的に占領地の住民を連行するようになる。
  5. ^ 戦況が悪化して労働力の確保が難しくなると、人道的な観点からではなく、生産を落とさないために労働者の再生産について考慮されるようになるが、同時に食料自給も悪化しており、結局は、より厳しい状況に労働者はおかれるだけであった。
  6. ^ 終戦直後のソ連は「400万人が虐殺された」と発表したが、現在では誇張の可能性が高いと見るむきが強い。ビルケナウ強制収容所跡にある慰霊碑に刻まれた死亡者数は、東西冷戦終結後の1995年に「400万人」から「150万人」に改められ、世界遺産に登録したユネスコの2007年6月28日のリリースには「120万人」と記載されている。近年、客観的な研究結果を踏まえて死亡者総数は減少したが、被収容者総数同様、確定的な数値の把握にはいたっていない
  7. ^ 持ち株会社のドイツ経済企業有限会社(DWB)、ドイツ装備品産業有限会社 (DAW)、ドイツ食糧試験所がSSの運営する企業。ドイツ食糧試験所はダッハウ強制収容所に調味料確保のためのハーブ栽培施設を作ったことでも知られる。
  8. ^ 1940年1月現在の工場数。
  9. ^ アウシュヴィッツ全体を管理する組織が置かれていたため、基幹収容所と呼ばれる。
  10. ^ 1943年12月まで所長として強制収容所を指揮。後任はアルトゥール・リーベヘンシェル。さらにその後任で最後の所長はリヒャルト・ベーア(戦後、フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判で被告となるが収監中に死亡)。
  11. ^ 当初「ブナ収容所」と呼ばれていたが、1944年以降は「モノヴィッツ収容所」に改称。
  12. ^ 3年後に脱出し、アウシュヴィッツの証言者となったカジミェシ・アルビンも含まれていた。
  13. ^ 戦後、ユダヤ人がイーゲー・ファルベン社に対して起こした損害賠償と慰謝料を求める民事訴訟は1957年に和解が成立。和解金として3,000万マルクが(このうち2,700万マルクがユダヤ人団体に、300万マルクが非ユダヤ人強制労働者に)支払われている。
  14. ^ BASF社、バイエル社、ヘキスト社の3社に分割された。
  15. ^ 「正面」「正面を向き視線を(撮影者から見て)左上に上げたもの」「横向き」の写真を撮影された。
  16. ^ 「Herbert, Geschichte der Ausländerpolitik, S.154.」では更に細かく分類している。「第一にドイツ人、続いて西欧労働者(フランス人市民労働者に続いてベルギー、オランダ人労働者)、そして続いてドイツと同盟あるいは従属関係にある南東ヨーロッパ出身労働者(ハンガリー、ルーマニア、スロヴェニア、セルヴィア、ギリシア、クロアチア)、次にチェコスロヴァキア(ベーメン、メーレン)出身労働者、そしてポーランド人、最後にソ連人、(1943年イタリア降伏後は)イタリア人、最下層にはユダヤ人が位置していた」。
  17. ^ 例外的なケースとしてフィリップ・ミューラーの件が挙げられる。彼自身の証言によれば1942年春から年末までゾンダーコマンドであったが、後に別の労働に移ることになり生き残ることができたとしている。彼はニュルンベルク裁判で証言台に立った。
  18. ^ 争いを避けるため被収容者間でパン屑の量まで計って配分したという証言もある[4]
  19. ^ 各労働者の労働力を3つのランク(ランク1. 一般的ドイツ人の業績の100%以上、ランク2. 100% - 90%、ランク3. 90%以下)いずれかに評価し、ランクによる配給制度。産業界は生産性の向上を目的に労働者の再生産環境向上を1943年頃より求めている。背景には、食料自給状況の悪化のほかに、東部戦線の停滞さらには、ソ連軍の反攻による労働力確保の行き詰まりが挙げられる。
  20. ^ たとえば、スラブ人に対しては、最低レベルに属するドイツ人労働者のさらに半分などと規定されていた。
  21. ^ 後に聖人に列せられたマキシミリアノ・コルベ神父は、他人の身代わりとしてこの餓死牢に入っている。
  22. ^ 絞首刑には移動式の絞首刑台なども用いられた。見せしめによる精神的抑圧を第一の目的としていると言える。
  23. ^ バイエルン赤十字(BRK)もこれに含まれる。
  24. ^ 「日本赤十字東京支部」に概要
  25. ^ 1949年に改定(第4項)。
  26. ^ 元視察員のモーリス・ロッセルはBBCのインタビューに対し、強制収容所の状況を自らの安全を考慮した上で直接現地から"正直"に報告することの難しさを述べている。
  27. ^ コルネリオ・ソマルガはBBCのインタビューに対し、スイスの国政にかかわる人間がICRC委員であったことに問題があったとも述べている。
  28. ^ 1939年から1941年に実施されたT4作戦にも関与した。
  29. ^ ただし、ナチスはドイツ国内で他民族(スラブ人など)が労働することを許可しない傾向にあり、もしこのような処置があったとしてもすべての被収容者に対してとは考えにくい。また、当時からソ連の体制に対する恐怖が一般大衆に少なからずあったことも事実であり、自主的な選択はもちろん、強制収容所という特殊な環境下においてこの恐怖を利用してドイツ移送を誘導的に承諾させたとも考えられる(ストックホルム症候群)。
  30. ^ アウシュヴィッツなどの強制収容所から解放され帰還したソ連兵捕虜、一般ソ連人(ソ連邦に属する人々)の多くは、敵に協力した反逆者としてソ連によって教化施設(強制労働施設)に送られることになる。
  31. ^ 強制収容所に残り、ソ連軍に解放された人々についても必ずしも安全が保障されたわけではなかったとする証言もある。ソ連は解放から約ひと月の間、他の連合諸国がアウシュヴィッツに立ち入ることを許可しなかった。このことが後にさまざまな疑念を生むひとつの原因にもなる。

出典

  1. ^ 世界遺産アカデミー監修 (2012) 『すべてがわかる世界遺産大事典・上』マイナビ、p.23
  2. ^ a b 早乙女(1980)p.15
  3. ^ 早乙女(1980)p.32
  4. ^ 『アウシュビッツの沈黙』 花元潔 東海大学出版会 2008年
  5. ^ 『アウシュビッツ博物館案内』 中谷剛 凱風社 2005年
  6. ^ アウシュヴィッツ徹底ガイド 6号棟その2「日々の生活」Archived 2007年12月17日, at the Wayback Machine.
  7. ^ ヘス 2019.
  8. ^ フォルクハルト クニッゲ; 柴嵜 雅子 (2008). “「最終的解決」の技術者たち”. 国際研究論叢 : 大阪国際大学紀要 21 (3). http://id.nii.ac.jp/1197/00000204/. 
  9. ^ PRESSAC 1989, p. 151.
  10. ^ PRESSAC 1989, pp. 132–133.
  11. ^ PRESSAC 1989, p. 183.
  12. ^ PRESSAC 1989, p. 184.
  13. ^ PRESSAC 1989, p. 260.
  14. ^ ヘス 2019, p. 297.
  15. ^ a b ヘス 2019, p. 388.
  16. ^ a b ヘス 2019, p. 389.
  17. ^ ヘス 2019, p. 396.
  18. ^ https://avalon.law.yale.edu/imt/count3.asp About 1,500,000 persons were exterminated in Maidanek and about 4,000,000 persons were exterminated in Auschwitz, among whom were citizens of Poland, the U.S.S.R., the United States of America, Great Britain, Czechoslovakia, France, and other countries.
  19. ^ https://avalon.law.yale.edu/imt/judwarcr.asp With regard to Auschwitz, the Tribunal heard the evidence of Hoess, the Commandant of the camp from 1st May, 1940, to 1st December, 1943. He estimated that in the camp of Auschwitz alone in that time 2,500,000 persons were exterminated, and that a further 500,000 died from disease and starvation.
  20. ^ Estimating the number of deportees to and victims of the Auschwitz-Birkenau camp, Franciszek Piper
  21. ^ https://www.auschwitz.org/en/history/kl-auschwitz-birkenau/the-topography-of-the-camp/ At least 1,300,000 people were deported to the camp, of whom at least 1,100,000 perished. Some estimates of the number killed are as high as 1,500,000.
  22. ^ Translation of USSR-8 Soviet War Crimes Report on Auschwitz Nuremberg Trial - 6 May 1945
  23. ^ ヘンリク・タウバーの証言"I estimate that the total number of people who were gassed in Auschwitz amounts to about four million."(私は、アウシュビッツでガス処刑された人々の総数は約400万人に達すると推定している)
  24. ^ シュロモ・ドラゴンの証言 "I believe that the number of people gassed in both bunkers and the four crematoria was over four million."(私は、ブンカーと4つの火葬場の両方でガス処刑された人の数は400万人を超えると考えている)
  25. ^ The Van Pelt Report by Robert Jan van Pelt
  26. ^ ヘス 2019, p. 399.
  27. ^ a b c d e Lectures on the Holocaust Germar Rudolf P127
  28. ^ a b c d e How many deaths at Auschwitz?



アウシュヴィッツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 03:21 UTC 版)

アルマ・ロゼ」の記事における「アウシュヴィッツ」の解説

アウシュヴィッツの女性のオーケストラ」も参照 アウシュビッツ到着した際、ロゼはひどい病気であったため隔離されていたが、回復後にアウシュヴィッツの女性オーケストラリーダー仕事担ったロゼ到着前、オーケストラはSS-Oberaufseherin(収容所女性警備隊)のマリア・マンデルお気に入りプロジェクトで、ポーランド人教師であるZofia Czajkowskaによって指揮なされていた。彼女はオーケストラすぐれたアンサンブル変えることに貢献したアンサンブルは主にアマチュア音楽家弦楽器さらにはアコーディオンマンドリンまでも含む楽器構成されていた。オーケストラ主要な職務は朝と夕方にメインゲートで演奏をして囚人送迎をすることであったオーケストラ囚人SSのために週末コンサート開きSS職務もてなしたガス室選別の間にオーケストラ演奏をしたかどうかについては諸説ある。ロゼオーケストラ指揮者として、平均的な収容者遙かに超える特権もてなし与えられた。その例として、ほかの収容者より多く食事個室与えられたことや、メンバー病気になったときは診察してもらえたことなどが挙げられる。これは、アウシュビッツにおけるユダヤ人囚人対す処遇としては破格のものであったロゼオーケストラ指揮し時にヴァイオリンソロ演奏したユダヤ人囚人としては異例なことに、彼女は音楽的な能力においてマリア・マンデルヨーゼフ・クラマーヨーゼフ・メンゲレなどに尊敬された。 また、ロゼ指揮したアンサンブルには、チェリストのアニタ・ラスカー=ウォルフィッシュと声楽家ピアニストのファニア・フェネロンがいて、それぞれが英語でオーケストラ体験記録を書いた。フェネロンの記録である Playin for Time同名の映画フィルムとして製作された。その中で、フェネロンはロゼ保身のためにドイツ人にひれ伏しとりわけ音楽家に対して罵倒をしている冷たい心を持った独裁者として述べていたため、ロゼ扱いに対して議論呼んでいる。 他のオーケストラメンバー強くこの記録異議唱えたロゼ最終的な関心は、オーケストラ女性達福祉を守ることにあったロゼは高い音楽性維持しただけでなく、ナチス逮捕者慰めることもあった。ロゼサポーターによる記録によれば、彼女の在職中オーケストラメンバーから死者出ておらず、彼女の成功証しとなっている。 ロゼ自身1944年死亡した死因食中毒推定されている。

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アウシュヴィッツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/09 21:48 UTC 版)

ポーランド人に対するナチスの犯罪」の記事における「アウシュヴィッツ」の解説

詳細は「アウシュヴィッツ」を参照 アウシュヴィッツは1940年6月14日最初ポーランド人728人がタルヌフ刑務所から移送されてから後、主要なポーランド人強制収容所となった1941年3月までに1万900人の囚人がこの収容所登録されたが、その殆どはポーランド人(非ユダヤ系)だった。1941年9月には200人の病気囚人(殆どがポーランド人)が、650人のソ連捕虜と共に、アウシュヴィッツで最初に行われたガス殺実験殺害された。1942年初めには、アウシュヴィッツの囚人様々な背景を持つ人々から構成されるようになったユダヤ人や、ドイツ占領したヨーロッパ各地から送られてきた「反逆者」がここに収容された。 ポーランド学者でアウシュヴィッツ研究第一人者であるフランチシェク・ピペル(en:Franciszek Piper)は、1940年から1945年までの期間に14万人から15万人ポーランド人(非ユダヤ系)がここに収容されそのうち7万人から75千人処刑残酷な人体実験飢餓疾病によって命を落とした推定している。

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アウシュヴィッツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 18:29 UTC 版)

フランツ・ヘスラー」の記事における「アウシュヴィッツ」の解説

1940年6月ヘスラー新設アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に移る。最初大量輸送、すなわち6月14日ポーランド人政治犯728人の到着にも居合わせた。彼は収容所糧食班に勤務する傍ら、しばしば付属収容所監督官(Kommandoführer)としても活動した1941年初頭には収容所労働指導者(Arbeitsdienstführer)に任命される1941年7月28日ヘスラーアウシュヴィッツ収容所からゾンネンシュタイン城(英語版)まで収容者575名を移送した。ゾンネンシュタイン城は、いわゆる特別措置14f13(英語版に従って安楽死施設英語版)が設置されていた。 1942年6月ヘスラーはオットー・モール(英語版)、ハンス・アウマイアー(英語版と共に、第1収容所における反乱逮捕され168名の処刑あたった1942年にはゾーラヒュッテ(英語版)(Solahütte)と呼ばれるザイブッシュでの親衛隊員向け保養地建設計画参加した1942年アウシュヴィッツ収容所正式に絶滅収容所指定されるヘスラー職員1人として様々な役割を担うことになる。1942年9月から11月まで、彼は収容者による旅団規模部隊、ゾンダーコマンド・ヘスラー(Sonderkommandoßler)を率いていた。この部隊の任務は第1収容所集団墓地埋葬されていた107,000分の死体掘り返し、第2収容所新しく設置され焼却棟へ運び込むことであった。ゾンダーコマンド・ヘスラーの隊員となった収容者は、その業務完了した後にほとんどが処刑された。この任務遂行するにあたってヘスラーはルドルフ・ヘースらと共にヘウムノ強制収容所9月16日訪問しパウル・ブローベルによる活動説明受けている.。 この頃ヘスラーは主に第1収容所の古い火葬場勤務しており、ガス殺などにも関わっていたという。1942年8月30日から11月17日まで勤務していた収容所軍医のヨハン・クレーマー(英語版)は、ヘスラーオランダ系ユダヤ人1,703人の移送関与していたことを証言している。 処刑に関してだが、私自身1942年12月10日日記記したように、その日およそ1,600人のオランダ人ガス殺されたことを断言する。この数字は私が何人かからの聞き取りによって推測したおおよそ数字だ。それらの活動ヘスラーというSS将校率いていた。彼は小さなガス室全員押し込もうしたものの、最後1人入りきらなかった。すると、ヘスラーリボルバー抜いてその男射殺したのだ。何故私がそんなことを日記書き残したか、ガス室前の凄惨な場面忘れられなかったからだ! “ ” ヨハン・クレーマー博士, 1947年7月18日、アウシュヴィッツ裁判における証言 1943年中頃ヘスラー収容者の中から「アーリア人」の女性募集する任務付いた募集にあたって「より良質な食事保護与える」と宣言していたが、実際には第1収容所内に新設され慰安所による募集だった。1943年8月、彼はアウシュヴィッツ女性監房看守長(Schutzhaftlagerführer)に昇格し管理長(Oberaufseherin)のマリア・マンデルと共に勤務したこの頃、彼はいわゆる選別処刑にも関与している。アウシュヴィッツ収容所から生還したゾンダーコマンド隊員、フィリップ・ミューラー(英語版)は、ヘスラーギリシャ系ユダヤ人グループガス室送り込む際に次のように話していたと証言している。 収容所管理部変わって諸君歓迎しよう。ここは保養所でこそないものの、強制労働収容所でもない第三帝国勝利為に前線ドイツ将兵身命を賭しているように、諸君もまた新たなヨーロッパ繁栄為にここで働かねばならないのだ。どう働くのは諸君次第だ。チャンス諸君個人個人為にある。我々は諸君の健康を保証するし、十分に高給仕事保証する戦争終わったなら、我々は諸君評価しなければならないし、それに相応し扱いをしなければならないさて、まずは服を脱ぎたまえ。用意されているフックに服をかけ、その番号忘れないように。入浴終わったなら、スープコーヒー紅茶全員用意されている。おっと、忘れるところだった。入浴終わったら、身分証明証卒業証書学校レポートなどの書類用意してほしい。我々は諸君能力に応じて仕事割り当てなければならないのだから。糖尿病患者がいるなら、入浴後の紅茶砂糖入れないよう職員申し出るように。 “ ” フランツ・ヘスラーSS中尉 1944年3月15日から5月15日までの短期間占領下フランスモースバッハ設置されていたネッカーエルツ強制収容所ドイツ語版)(KZ Neckarelz)にて所長職に着く。ネッカーエルツはナッツヴァイラー・シュトゥルトホフ強制収容所付属収容所(Außenlager)であった1944年6月連合国によるフランス上陸が始まる頃、ヘスラーはアウシュヴィッツに戻って1945年1月収容所破られるまで看守長として勤務した

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アウシュヴィッツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 15:59 UTC 版)

オーヴィッツ一家」の記事における「アウシュヴィッツ」の解説

収容所オーヴィッツ一家は、後に「死の天使」と恐れられるドイツ人医師ヨーゼフ・メンゲレ関心をひいた。遺伝形質実験のための珍品蒐集していた彼は、他の囚人たち区別して一家実験材料加えたメンゲレ興味持ったのは、一家には小人症そうでない人間がいるということだった。他にも11人が一家親戚であるとされ、メンゲレはその全員自分の「人間動物園」に移したメンゲレ双子などの実験材料よりもはるかに得がたいこの小人症家族の命を救うために、彼はオーヴィッツ一家のために特別な住環境用意し、そこで観察した人体実験のためには健康を保たねばならないので、衛生には特に気をつかい、食事もよいものにしている。家族には自分たちの衣服を持つことさえ許可し、背の高い人間には小人症家族実験施設に運ぶよう命令したオーヴィッツ一家は、他の囚人同様にいくつも検査受けた遺伝子疾患特徴発見するため、メンゲレ付き内科医骨髄引き抜き、歯や髪の毛抜きとった。耳には冷水や湯を注がれ薬品点眼されて目は見えなくなった婦人科医結婚した女性調べた生後18ヶ月のシンション・オーヴィッツは最も苦し体験をしたといえる。彼は背の高い両親生まれ、しかも未熟児だった。メンゲレは耳の裏と指の血管から血を抜いたオーヴィッツ一家のように目をつけられ2人新たな小人症人間は、煮殺された。彼らの骨は博物館展示されている。 あるとき収容所訪れた高官たちの前で、メンゲレオーヴィッツ一家の服を脱がせ、その裸を見物させた。彼はまたヒトラー娯楽になるようにと一家映像記録残している。命を惜し一家は、メンゲレ命じるたびに一口話披露しドイツ語で歌をうたったメンゲレ実験終了後殺されるはずだったが、1945年1月にアウシュヴィッツが解放され赤軍によって難民キャンプへと案内された。

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