アウシュビッツ【(ドイツ)Auschwitz】
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
(アウシュヴィッツ から転送)
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アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(アウシュヴィッツ ビルケナウ きょうせいしゅうようじょ、ドイツ語: Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau、ポーランド語: Obóz Koncentracyjny Auschwitz-Birkenau)は、ナチス・ドイツが第二次世界大戦中に国家を挙げて推進した人種差別による絶滅政策(ホロコースト)および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所である。収容者の90%がユダヤ人(アシュケナジム)であった。
注釈
- ^ 「アウシュビッツ」と表記している日本の歴史教科書もある。たとえば、『中学社会 歴史』(教育出版株式会社。文部省検定済教科書。中学校社会科用。平成8年2月29日文部省検定済。平成10年1月10日印刷。平成10年1月20日発行。教科書番号17教出・歴史762)p 255では「また, 各国のユダヤ人は, ユダヤ人であるという理由だけでアウシュビッツなどの強制収容所に入れられて虐殺された。」と記載されている。
- ^ 東部併合地域から全てのユダヤ人と300-400万人に及ぶポーランド系ユダヤ人を移送し、入れ替わりに20 万のドイツ人を入植させる計画。
- ^ 「アンネの日記」「ハンナのかばん」などが著名。
- ^ 前記の収容理由以外に、労働者の一般募集も行い、工場などへ派遣していた。労働力不足が顕著になってからは、募集のほかに、強制的に占領地の住民を連行するようになる。
- ^ 戦況が悪化して労働力の確保が難しくなると、人道的な観点からではなく、生産を落とさないために労働者の再生産について考慮されるようになるが、同時に食料自給も悪化しており、結局は、より厳しい状況に労働者はおかれるだけであった。
- ^ 終戦直後のソ連は「400万人が虐殺された」と発表したが、現在では誇張の可能性が高いと見るむきが強い。ビルケナウ強制収容所跡にある慰霊碑に刻まれた死亡者数は、東西冷戦終結後の1995年に「400万人」から「150万人」に改められ、世界遺産に登録したユネスコの2007年6月28日のリリースには「120万人」と記載されている。近年、客観的な研究結果を踏まえて死亡者総数は減少したが、被収容者総数同様、確定的な数値の把握にはいたっていない
- ^ 持ち株会社のドイツ経済企業有限会社(DWB)、ドイツ装備品産業有限会社 (DAW)、ドイツ食糧試験所がSSの運営する企業。ドイツ食糧試験所はダッハウ強制収容所に調味料確保のためのハーブ栽培施設を作ったことでも知られる。
- ^ 1940年1月現在の工場数。
- ^ アウシュヴィッツ全体を管理する組織が置かれていたため、基幹収容所と呼ばれる。
- ^ 1943年12月まで所長として強制収容所を指揮。後任はアルトゥール・リーベヘンシェル。さらにその後任で最後の所長はリヒャルト・ベーア(戦後、フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判で被告となるが収監中に死亡)。
- ^ 当初「ブナ収容所」と呼ばれていたが、1944年以降は「モノヴィッツ収容所」に改称。
- ^ 3年後に脱出し、アウシュヴィッツの証言者となったカジミェシ・アルビンも含まれていた。
- ^ 戦後、ユダヤ人がイーゲー・ファルベン社に対して起こした損害賠償と慰謝料を求める民事訴訟は1957年に和解が成立。和解金として3,000万マルクが(このうち2,700万マルクがユダヤ人団体に、300万マルクが非ユダヤ人強制労働者に)支払われている。
- ^ BASF社、バイエル社、ヘキスト社の3社に分割された。
- ^ 「正面」「正面を向き視線を(撮影者から見て)左上に上げたもの」「横向き」の写真を撮影された。
- ^ 「Herbert, Geschichte der Ausländerpolitik, S.154.」では更に細かく分類している。「第一にドイツ人、続いて西欧労働者(フランス人市民労働者に続いてベルギー、オランダ人労働者)、そして続いてドイツと同盟あるいは従属関係にある南東ヨーロッパ出身労働者(ハンガリー、ルーマニア、スロヴェニア、セルヴィア、ギリシア、クロアチア)、次にチェコスロヴァキア(ベーメン、メーレン)出身労働者、そしてポーランド人、最後にソ連人、(1943年イタリア降伏後は)イタリア人、最下層にはユダヤ人が位置していた」。
- ^ 例外的なケースとしてフィリップ・ミューラーの件が挙げられる。彼自身の証言によれば1942年春から年末までゾンダーコマンドであったが、後に別の労働に移ることになり生き残ることができたとしている。彼はニュルンベルク裁判で証言台に立った。
- ^ 争いを避けるため被収容者間でパン屑の量まで計って配分したという証言もある[4]
- ^ 各労働者の労働力を3つのランク(ランク1. 一般的ドイツ人の業績の100%以上、ランク2. 100% - 90%、ランク3. 90%以下)いずれかに評価し、ランクによる配給制度。産業界は生産性の向上を目的に労働者の再生産環境向上を1943年頃より求めている。背景には、食料自給状況の悪化のほかに、東部戦線の停滞さらには、ソ連軍の反攻による労働力確保の行き詰まりが挙げられる。
- ^ たとえば、スラブ人に対しては、最低レベルに属するドイツ人労働者のさらに半分などと規定されていた。
- ^ 後に聖人に列せられたマキシミリアノ・コルベ神父は、他人の身代わりとしてこの餓死牢に入っている。
- ^ 絞首刑には移動式の絞首刑台なども用いられた。見せしめによる精神的抑圧を第一の目的としていると言える。
- ^ バイエルン赤十字(BRK)もこれに含まれる。
- ^ 「日本赤十字東京支部」に概要
- ^ 1949年に改定(第4項)。
- ^ 元視察員のモーリス・ロッセルはBBCのインタビューに対し、強制収容所の状況を自らの安全を考慮した上で直接現地から"正直"に報告することの難しさを述べている。
- ^ コルネリオ・ソマルガはBBCのインタビューに対し、スイスの国政にかかわる人間がICRC委員であったことに問題があったとも述べている。
- ^ 1939年から1941年に実施されたT4作戦にも関与した。
- ^ ただし、ナチスはドイツ国内で他民族(スラブ人など)が労働することを許可しない傾向にあり、もしこのような処置があったとしてもすべての被収容者に対してとは考えにくい。また、当時からソ連の体制に対する恐怖が一般大衆に少なからずあったことも事実であり、自主的な選択はもちろん、強制収容所という特殊な環境下においてこの恐怖を利用してドイツ移送を誘導的に承諾させたとも考えられる(ストックホルム症候群)。
- ^ アウシュヴィッツなどの強制収容所から解放され帰還したソ連兵捕虜、一般ソ連人(ソ連邦に属する人々)の多くは、敵に協力した反逆者としてソ連によって教化施設(強制労働施設)に送られることになる。
- ^ 強制収容所に残り、ソ連軍に解放された人々についても必ずしも安全が保障されたわけではなかったとする証言もある。ソ連は解放から約ひと月の間、他の連合諸国がアウシュヴィッツに立ち入ることを許可しなかった。このことが後にさまざまな疑念を生むひとつの原因にもなる。
出典
- ^ 世界遺産アカデミー監修 (2012) 『すべてがわかる世界遺産大事典・上』マイナビ、p.23
- ^ a b 早乙女(1980)p.15
- ^ 早乙女(1980)p.32
- ^ 『アウシュビッツの沈黙』 花元潔 東海大学出版会 2008年
- ^ 『アウシュビッツ博物館案内』 中谷剛 凱風社 2005年
- ^ アウシュヴィッツ徹底ガイド 6号棟その2「日々の生活」Archived 2007年12月17日, at the Wayback Machine.
- ^ ヘス 2019.
- ^ フォルクハルト クニッゲ; 柴嵜 雅子 (2008). “「最終的解決」の技術者たち”. 国際研究論叢 : 大阪国際大学紀要 21 (3) .
- ^ PRESSAC 1989, p. 151.
- ^ PRESSAC 1989, pp. 132–133.
- ^ PRESSAC 1989, p. 183.
- ^ PRESSAC 1989, p. 184.
- ^ PRESSAC 1989, p. 260.
- ^ ヘス 2019, p. 297.
- ^ a b ヘス 2019, p. 388.
- ^ a b ヘス 2019, p. 389.
- ^ ヘス 2019, p. 396.
- ^ https://avalon.law.yale.edu/imt/count3.asp About 1,500,000 persons were exterminated in Maidanek and about 4,000,000 persons were exterminated in Auschwitz, among whom were citizens of Poland, the U.S.S.R., the United States of America, Great Britain, Czechoslovakia, France, and other countries.
- ^ https://avalon.law.yale.edu/imt/judwarcr.asp With regard to Auschwitz, the Tribunal heard the evidence of Hoess, the Commandant of the camp from 1st May, 1940, to 1st December, 1943. He estimated that in the camp of Auschwitz alone in that time 2,500,000 persons were exterminated, and that a further 500,000 died from disease and starvation.
- ^ Estimating the number of deportees to and victims of the Auschwitz-Birkenau camp, Franciszek Piper
- ^ https://www.auschwitz.org/en/history/kl-auschwitz-birkenau/the-topography-of-the-camp/ At least 1,300,000 people were deported to the camp, of whom at least 1,100,000 perished. Some estimates of the number killed are as high as 1,500,000.
- ^ Translation of USSR-8 Soviet War Crimes Report on Auschwitz Nuremberg Trial - 6 May 1945
- ^ ヘンリク・タウバーの証言"I estimate that the total number of people who were gassed in Auschwitz amounts to about four million."(私は、アウシュビッツでガス処刑された人々の総数は約400万人に達すると推定している)
- ^ シュロモ・ドラゴンの証言 "I believe that the number of people gassed in both bunkers and the four crematoria was over four million."(私は、ブンカーと4つの火葬場の両方でガス処刑された人の数は400万人を超えると考えている)
- ^ The Van Pelt Report by Robert Jan van Pelt
- ^ ヘス 2019, p. 399.
- ^ a b c d e Lectures on the Holocaust Germar Rudolf P127
- ^ a b c d e How many deaths at Auschwitz?
アウシュヴィッツ
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「アウシュヴィッツの女性のオーケストラ」も参照 アウシュビッツへ到着した際、ロゼはひどい病気であったため隔離されていたが、回復後にアウシュヴィッツの女性オーケストラのリーダーの仕事を担った。ロゼの到着前、オーケストラはSS-Oberaufseherin(収容所の女性警備隊)のマリア・マンデルのお気に入りのプロジェクトで、ポーランド人教師であるZofia Czajkowskaによって指揮がなされていた。彼女はオーケストラをすぐれたアンサンブルに変えることに貢献した。アンサンブルは主にアマチュアの音楽家と弦楽器、さらにはアコーディオンやマンドリンまでも含む楽器で構成されていた。オーケストラの主要な職務は朝と夕方にメインゲートで演奏をして囚人の送迎をすることであった。オーケストラは囚人とSSのために週末コンサートを開き、SSの職務をもてなした。ガス室の選別の間にオーケストラが演奏をしたかどうかについては諸説ある。ロゼはオーケストラの指揮者として、平均的な収容者を遙かに超える特権ともてなしを与えられた。その例として、ほかの収容者より多くの食事と個室も与えられたことや、メンバーが病気になったときは診察してもらえたことなどが挙げられる。これは、アウシュビッツにおけるユダヤ人の囚人に対する処遇としては破格のものであった。ロゼはオーケストラを指揮し、時にヴァイオリンのソロも演奏した。ユダヤ人の囚人としては異例なことに、彼女は音楽的な能力においてマリア・マンデル、ヨーゼフ・クラマーやヨーゼフ・メンゲレなどに尊敬された。 また、ロゼが指揮したアンサンブルには、チェリストのアニタ・ラスカー=ウォルフィッシュと声楽家兼ピアニストのファニア・フェネロンがいて、それぞれが英語でオーケストラの体験記録を書いた。フェネロンの記録である Playin for Time は同名の映画フィルムとして製作された。その中で、フェネロンはロゼを保身のためにドイツ人にひれ伏し、とりわけ音楽家に対して、罵倒をしている冷たい心を持った独裁者として述べていたため、ロゼの扱いに対して議論を呼んでいる。 他のオーケストラのメンバーは強くこの記録に異議を唱えた。ロゼの最終的な関心は、オーケストラの女性達の福祉を守ることにあった。ロゼは高い音楽性を維持しただけでなく、ナチスの逮捕者を慰めることもあった。ロゼのサポーターによる記録によれば、彼女の在職中のオーケストラのメンバーから死者は出ておらず、彼女の成功の証しとなっている。 ロゼ自身は1944年に死亡した。死因は食中毒と推定されている。
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アウシュヴィッツ
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「ポーランド人に対するナチスの犯罪」の記事における「アウシュヴィッツ」の解説
詳細は「アウシュヴィッツ」を参照 アウシュヴィッツは1940年6月14日に最初のポーランド人728人がタルヌフの刑務所から移送されてから後、主要なポーランド人強制収容所となった。1941年3月までに1万900人の囚人がこの収容所に登録されたが、その殆どはポーランド人(非ユダヤ系)だった。1941年9月には200人の病気の囚人(殆どがポーランド人)が、650人のソ連人捕虜と共に、アウシュヴィッツで最初に行われたガス殺実験で殺害された。1942年の初めには、アウシュヴィッツの囚人は様々な背景を持つ人々から構成されるようになった。ユダヤ人や、ドイツが占領したヨーロッパ各地から送られてきた「反逆者」がここに収容された。 ポーランドの学者でアウシュヴィッツ研究の第一人者であるフランチシェク・ピペル(en:Franciszek Piper)は、1940年から1945年までの期間に14万人から15万人のポーランド人(非ユダヤ系)がここに収容され、そのうち7万人から7万5千人が処刑、残酷な人体実験、飢餓、疾病によって命を落としたと推定している。
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アウシュヴィッツ
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「フランツ・ヘスラー」の記事における「アウシュヴィッツ」の解説
1940年6月、ヘスラーは新設のアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に移る。最初の大量輸送、すなわち6月14日のポーランド人政治犯728人の到着にも居合わせた。彼は収容所の糧食班に勤務する傍ら、しばしば付属収容所の監督官(Kommandoführer)としても活動した。1941年初頭には収容所の労働指導者(Arbeitsdienstführer)に任命される。1941年7月28日、ヘスラーはアウシュヴィッツ収容所からゾンネンシュタイン城(英語版)まで収容者575名を移送した。ゾンネンシュタイン城は、いわゆる特別措置14f13(英語版)に従って安楽死施設(英語版)が設置されていた。 1942年6月、ヘスラーはオットー・モール(英語版)、ハンス・アウマイアー(英語版)と共に、第1収容所における反乱で逮捕された168名の処刑にあたった。1942年にはゾーラヒュッテ(英語版)(Solahütte)と呼ばれるザイブッシュでの親衛隊員向け保養地建設計画に参加した。 1942年、アウシュヴィッツ収容所が正式に絶滅収容所に指定されるとヘスラーも職員の1人として様々な役割を担うことになる。1942年9月から11月まで、彼は収容者による旅団規模の部隊、ゾンダーコマンド・ヘスラー(Sonderkommando Hößler)を率いていた。この部隊の任務は第1収容所の集団墓地に埋葬されていた107,000人分の死体を掘り返し、第2収容所に新しく設置された焼却棟へ運び込むことであった。ゾンダーコマンド・ヘスラーの隊員となった収容者は、その業務が完了した後にほとんどが処刑された。この任務を遂行するにあたって、ヘスラーはルドルフ・ヘースらと共にヘウムノ強制収容所を9月16日に訪問し、パウル・ブローベルによる活動の説明を受けている.。 この頃、ヘスラーは主に第1収容所の古い火葬場に勤務しており、ガス殺などにも関わっていたという。1942年8月30日から11月17日まで勤務していた収容所付軍医のヨハン・クレーマー(英語版)は、ヘスラーがオランダ系ユダヤ人1,703人の移送に関与していたことを証言している。 処刑に関してだが、私自身が1942年12月10日に日記に記したように、その日およそ1,600人のオランダ人がガス殺されたことを断言する。この数字は私が何人かからの聞き取りによって推測したおおよその数字だ。それらの活動はヘスラーというSS将校が率いていた。彼は小さなガス室に全員を押し込もうとしたものの、最後の1人が入りきらなかった。すると、ヘスラーはリボルバーを抜いてその男を射殺したのだ。何故私がそんなことを日記に書き残したか、ガス室前の凄惨な場面を忘れられなかったからだ! “ ” ヨハン・クレーマー博士, 1947年7月18日、アウシュヴィッツ裁判における証言 1943年中頃、ヘスラーは収容者の中から「アーリア人」の女性を募集する任務に付いた。募集にあたって「より良質な食事と保護を与える」と宣言していたが、実際には第1収容所内に新設された慰安所による募集だった。1943年8月、彼はアウシュヴィッツ女性監房の看守長(Schutzhaftlagerführer)に昇格し、管理長(Oberaufseherin)のマリア・マンデルと共に勤務した。この頃、彼はいわゆる選別と処刑にも関与している。アウシュヴィッツ収容所から生還した元ゾンダーコマンド隊員、フィリップ・ミューラー(英語版)は、ヘスラーがギリシャ系ユダヤ人のグループをガス室に送り込む際に次のように話していたと証言している。 収容所管理部に変わって、諸君を歓迎しよう。ここは保養所でこそないものの、強制労働収容所でもない。第三帝国の勝利の為に前線のドイツ将兵が身命を賭しているように、諸君もまた新たなヨーロッパの繁栄の為にここで働かねばならないのだ。どう働くのは諸君次第だ。チャンスは諸君ら個人個人の為にある。我々は諸君の健康を保証するし、十分に高給な仕事も保証する。戦争が終わったなら、我々は諸君を評価しなければならないし、それに相応しい扱いをしなければならない。さて、まずは服を脱ぎたまえ。用意されているフックに服をかけ、その番号を忘れないように。入浴が終わったなら、スープやコーヒー、紅茶が全員に用意されている。おっと、忘れるところだった。入浴が終わったら、身分証明証や卒業証書、学校のレポートなどの書類を用意してほしい。我々は諸君の能力に応じて仕事を割り当てなければならないのだから。糖尿病患者がいるなら、入浴後の紅茶に砂糖を入れないよう職員に申し出るように。 “ ” フランツ・ヘスラーSS中尉 1944年3月15日から5月15日までの短期間、占領下フランスのモースバッハに設置されていたネッカーエルツ強制収容所(ドイツ語版)(KZ Neckarelz)にて所長職に着く。ネッカーエルツはナッツヴァイラー・シュトゥルトホフ強制収容所の付属収容所(Außenlager)であった。1944年6月、連合国によるフランス上陸が始まる頃、ヘスラーはアウシュヴィッツに戻って1945年1月に収容所が破られるまで看守長として勤務した。
※この「アウシュヴィッツ」の解説は、「フランツ・ヘスラー」の解説の一部です。
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アウシュヴィッツ
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「オーヴィッツ一家」の記事における「アウシュヴィッツ」の解説
収容所でオーヴィッツ一家は、後に「死の天使」と恐れられるドイツ人医師ヨーゼフ・メンゲレの関心をひいた。遺伝形質の実験のための珍品を蒐集していた彼は、他の囚人たちと区別して一家を実験材料に加えた。メンゲレが興味を持ったのは、一家には小人症とそうでない人間がいるということだった。他にも11人が一家の親戚であるとされ、メンゲレはその全員を自分の「人間動物園」に移した。 メンゲレは双子などの実験材料よりもはるかに得がたいこの小人症の家族の命を救うために、彼はオーヴィッツ一家のために特別な住環境を用意し、そこで観察した。人体実験のためには健康を保たねばならないので、衛生には特に気をつかい、食事もよいものにしている。家族には自分たちの衣服を持つことさえ許可し、背の高い人間には小人症の家族を実験施設に運ぶよう命令した。 オーヴィッツ一家は、他の囚人と同様にいくつもの検査を受けた。遺伝子疾患の特徴を発見するため、メンゲレ付きの内科医が骨髄を引き抜き、歯や髪の毛を抜きとった。耳には冷水や湯を注がれ、薬品を点眼されて目は見えなくなった。婦人科医は結婚した女性を調べた。 生後18ヶ月のシンション・オーヴィッツは最も苦しい体験をしたといえる。彼は背の高い両親に生まれ、しかも未熟児だった。メンゲレは耳の裏と指の血管から血を抜いた。オーヴィッツ一家のように目をつけられた2人の新たな小人症の人間は、煮殺された。彼らの骨は博物館に展示されている。 あるとき収容所を訪れた高官たちの前で、メンゲレはオーヴィッツ一家の服を脱がせ、その裸を見物させた。彼はまたヒトラーの娯楽になるようにと一家の映像記録を残している。命を惜しむ一家は、メンゲレが命じるたびに一口話を披露し、ドイツ語で歌をうたった。 メンゲレの実験終了後に殺されるはずだったが、1945年1月にアウシュヴィッツが解放され、赤軍によって難民キャンプへと案内された。
※この「アウシュヴィッツ」の解説は、「オーヴィッツ一家」の解説の一部です。
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「アウシュヴィッツ」の例文・使い方・用例・文例
- 我々は、アウシュヴィッツの解放の50回目の記念日を思い出した
- 「記憶の列車」がアウシュヴィッツに到着
- (オシフィエンチムのドイツ名はアウシュヴィッツである。)
- アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所はオシフィエンチム駅の近くにあり,5月8日はヨーロッパでの戦闘の終結記念日だ。
- アウシュヴィッツに到着する前にこの列車は62駅を訪れ,およそ22万5000人の見学者を集めた。
- アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館
- アウシュヴィッツ強制収容所はポーランドの南部にありました。
- その収容所は,アウシュヴィッツ第1収容所,アウシュヴィッツ第2収容所・ビルケナウ,アウシュヴィッツ第3収容所・モノヴィッツとその他多くの補助収容所で構成されていました。
- 現在,アウシュヴィッツ第1・第2収容所の跡地は追悼施設や博物館として一般公開されています。
- アウシュヴィッツ第1収容所は,ポーランド人の政治犯を収容するため,1940年に建設されました。
- 1941年,アウシュヴィッツ第1収容所から3キロ離れたところに,アウシュヴィッツ第2収容所・ビルケナウが建設されました。
- アウシュヴィッツ第1・第2収容所では,大勢の人々がガス室で殺されました。
- 正確なデータは残っていませんが,約150万人がアウシュヴィッツで亡くなったと言われています。
- アウシュヴィッツ第1収容所の入口では,「Arbeit macht frei」という標示を見ることができます。
- アウシュヴィッツ第1収容所には2階建ての収容施設が28棟ありました。
- 被収容者の大部分は,アウシュヴィッツに到着するとすぐにそのままガス室へ送られました。
- アウシュヴィッツ博物館は被収容者のめがね,トランク,衣服や義足を集めたものを展示しています。
- アウシュヴィッツ第2収容所・ビルケナウはアウシュヴィッツ第1収容所よりも広大でした。
- 1944年8月のピーク時には,10万人もの人々がアウシュヴィッツ第2収容所に収容されていました。
- 被収容者は,ヨーロッパ中のさまざまな場所から列車でアウシュヴィッツに連れて来られました。
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