マルコポーロ事件
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マルコポーロ事件(マルコポーロじけん)は、1995年2月に日本の文藝春秋が発行していた雑誌『マルコポーロ』が、内科医西岡昌紀が寄稿したホロコーストを否定する内容の記事を掲載したことに対して、アメリカのユダヤ人団体サイモン・ウィーゼンタール・センターなどからの抗議を受けて同誌を自主廃刊したこと、および当時の社長や編集長が辞任解任された事態を指す。この事件は、日本における「歴史修正主義」あるいは「ホロコースト否認論」を巡る状況のなかで、最も広範囲に話題となったもののひとつである。また、日本の出版界の商業主義、過度な広告依存、スポンサーへの過剰萎縮などの議論のきっかけとなった。
- ^ 「戦後世界史最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった」(『マルコポーロ』1995年2月号)より記事の一部を引用する。著者はインターネット上の引用を認めている。
- ^ 戦後世界史最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった」(『マルコポーロ』1995年2月号)p. 178
- ^ a b 同p. 179
- ^ 石田勇治「ナチ『ガス室』はなかったか ホロコースト見直し論を検証する」。『歴史地理教育』に掲載後、『アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>』(初版1995年、白水社Uブックス2005年)所収。これはティル・バスティアンによる『アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>』(C.H.Beck社)に補足して、石田勇治、星乃治彦、芝野由和が編集したもの。
- ^ 西岡,1997
- ^ 西岡昌紀『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』(日新報道・1997年)217~220ページ
- ^ a b c 江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号
- ^ 江川1995
- ^ 宅八郎「週刊宅八郎」第8回 『週刊SPA!』1995年2月22日号
- ^ 西岡『アウシュウィッツ『ガス室』の真実』
- ^ a b 『週刊現代』1995年2月18日号
- ^ 『噂の眞相』1995年4月号「特集2ユダヤ人団体の抗議と広告撤退に完全屈服!『マルコポーロ』を突如廃刊にした文藝春秋の寒々しい“言論事情”」 丸山昇 1995年4月2日発行 2014年11月24日閲覧
- ^ a b 雑誌『第三文明』1998年9月号の記事「ナチ〈ガス室〉の否定と歴史修正主義の虚妄」
- ^ 『Iーメディア』一五二号、参照→渡辺論文での誤植か?
- ^ 『ゴーマニズム宣言』の項参照
- ^ 真山巴「文藝春秋『マルコポーロ』突如廃刊の「深層」を検証!:あの「事件」からまもなく一年・ようやくその背景が見えてきた」(『噂の真相』1996年1月号)
- ^ 木村愛二著『アウシュヴィッツの争点』(リベルタ出版・1995年
- ^ この経緯については、西岡が著者の一人となっている『教科書が教えない小林よしのり』(ロフトブックス編、ロフト出版刊、1997年11月、ISBN 4-7952-0069-6)に詳しい(ゴーマニズム宣言の項参照)。
- ^ 『中村敦夫新聞』のこの記事については、月刊『創』1995年5月号に木村愛二が寄稿した記事に詳しい記述がある。
- ^ 篠田博之「文藝春秋・田中健五前社長の憂鬱」月刊『創』1995年4月号
- ^ |江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号
- ^ 広河隆一『パレスチナ難民キャンプの瓦礫の中で/フォト・ジャーナリストが見た三十年』(草思社、1998年)166ページ
- ^ 広河、同書159ページ
- ^ 広河、同書171ページ
- ^ 『暴走する国家 恐慌化する世界―迫り来る新統制経済体制(ネオ・コーポラティズム)の罠』(日本文芸社、2008年
- ^ 田中宇メールマガジン「ホロコーストを巡る戦い」2005年12月20日
- ^ 絓秀実 『「超」言葉狩り論争』 情況出版 1995年 ISBN 4-915252-17-5
- ^ 木村愛二『アウシュヴィッツの争点』(リベルタ出版、1995年) 木村は、インターネット上での自由な著書引用を認めている。
- ^ 石田勇治「補論 アウシュヴィッツ=ビルケナウ絶滅収容所の史料から」梶村太一郎・金子マーティン・本多勝一・新美隆・石田勇治著『ジャーナリズムと歴史認識 ホロコーストをどう伝えるか』(凱風社、1999年)
- ^ ダン・ストーン著・武井彩佳訳『ホロコースト・スタディーズ』(白水社2012年)は近年の主な研究成果を概観している。
- ^ 論文集サイト
- ^ 金子マーティン「「ガス室はなかった」と唱える日本人に捧げるレクイエム」『週刊金曜日』155号 1997年1月24日。金子マーティン「ガス室存在の明白な資料を無視する木村愛二」『週刊金曜日』156号 1997年1月31日
- ^ 松浦寛 2000, p. 123.
- ^ 地裁判決文は、梶村太一郎、本多勝一らの『ジャーナリズムと歴史認識』(凱風社)に所収。
マルコポーロ事件
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「ホロコースト否認」の記事における「マルコポーロ事件」の解説
詳細は「マルコポーロ事件」を参照 1995年、当時厚生省職員であった医師の西岡昌紀が「ナチ『ガス室』はなかった」という記事を『マルコポーロ』誌に掲載したことが国際的非難を呼び、最終的に『マルコポーロ』紙は廃刊となった(マルコポーロ事件)。記事の中で西岡は「ナチス・ドイツがユダヤ人を迫害した事は明白」として当時のドイツのユダヤ人政策を支持する立場ではないことを明確にした上で、ドイツはユダヤ人を迫害したが「絶滅」までは計画しておらず、収容所でユダヤ人が大量死した原因は発疹チフスなどによるもので、アウシュヴィッツ等の収容所に処刑のためのガス室は存在しなかった、連合国はそれら病死したユダヤ人の死体の映像をガス室の犠牲者であったかのように発表・宣伝した、等の考察を発表した。なお同記事は、数回のシリーズの第一回として書かれた記事であった。 江川紹子はマルコポーロ事件の直後、マルコポーロの西岡記事を支持しないと明言した上で、サイモン・ウィーゼンタール・センターが文藝春秋に対して行なった広告ボイコットの手法を「民主主義の枠を超えている」と批判、月刊誌『噂の真相』やジャーナリストの長岡義幸などもこの問題を巡る言論弾圧の空気を批判し、「ガス室」についての判断は留保しつつも、西岡を擁護している。木村愛二は『マルコポーロ』の記事がイスラエル建国とホロコーストの関係に全く言及していない点を批判している。 西岡自身はその後、パソコン通信上の発言と1997年の著書において、細部の記述には誤りがあったと自ら認めつつ、ホロコースト否認の立場を維持、ホロコースト否認論者に対する言論規制の動きを「ファシズムと呼ぶべきもの」と呼んで批判した。 ジャーナリストの田中宇は、ホロコーストをめぐる言論状況について「常識と異なる結論に達したら「犯罪者」にされるというのは、分析が禁じられているのと同じ」であるし、またヨーロッパではホロコーストの事実性を検証の対象にすることさえ禁じられようとしていると指摘している。また、シオニストの中でも過激派と、国際協調主義を信奉する労働党系の中道派(左派)とでは意見が対立していると指摘している。 2014年産経新聞が11月26日付の同紙東海・北陸版(約5000部)にホロコーストを否定する書籍の全面広告を掲載し、ユダヤ系団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」より抗議を受け、謝罪を行った。
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マルコポーロ事件
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1995年1月、『マルコポーロ』が、ホロコーストでのガス室処刑を否定する記事を掲載してアメリカ合衆国のユダヤ人団体や人権団体から抗議を受けた時(マルコポーロ事件)、この件について取材を開始。 『マルコポーロ』が廃刊された後にもこの問題を繰り返し大きく取り上げ、記事の寄稿者で、ガス室の存在に否定的な立場を取る西岡昌紀を批判した。 2000年12月、反差別国際運動日本委員会(IMADR-JC)主催の人種差別撤廃条約シンポジウムに、福島瑞穂らと一緒にパネリストとして参加。
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