精神分析学
精神分析学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 13:56 UTC 版)
「エディプスコンプレックス」も参照 精神分析学の創始者であるジークムント・フロイトは子供に近親相姦願望があると考え、自身の主張をギリシア悲劇の一つ『オイディプス王』になぞらえ、エディプスコンプレックスと呼んだ。彼の主張によれば男児の自我は初め最も身近な存在である母親を自己のものにしようとする欲望を抱くが、自我の発達がさらに進展すると男児は母親の所有において父親は競争相手であるという認識をいだき、この際に父親に去勢される可能性から近親相姦的欲望は抑制され、その結果として父親に同一化していた自我の成分が無意識下に導入され「超自我」となり、それが自我の発達に重要な関与をもたらすという。フロイトは母親と幼児の関係は授乳等の関係において性的な意味合いを帯びると考えた。フロイトはあらゆる欲動は結局は死の欲動であると論じたが、向井雅明の解説によれば、これは死の欲動の対象となるdas Dingすなわち無が形態を持たないため、母子関係における乳房等がその具体的対象として想定されているのだという。フロイトはエディプス・コンプレックスの脱性化による超自我の形成という現象は、イマヌエル・カントのいう定言命法に通じるものがあると述べていた。 だが、この理論は父権制社会を前提としたものであるため、ブロニスワフ・マリノフスキの「母権性社会」の話からすると普遍的な話とは考えにくいとの批判がある。ブロニスワフ・マリノフスキは、エディプスコンプレックスはアーリアン語族の言語を用いている社会の家族像を前提にしていると指摘する。ただ、これに関しては当初から批判があり、だからこそ一時はフロイトを支持していたアルフレッド・アドラーもカール・グスタフ・ユングも結局はフロイトから離反したのである。アドラーはエディプスコンプレックスは一部の人にしか見られないと主張したが、岸見一郎はアドラーは母親よりも父親と仲が良かったのだと論じている。また、フロイトもユングも近親相姦の話を神話的と捉えたが、フロイトは近親相姦ファンタジーの処理がうまくいっていないことが問題を引き起こすと考えた一方で、ユングは近親相姦の話はより普遍的なものであり現実的問題はそれ以外の個人的なものに由来するとしたように問題の本質についての思想の差異も存在した。元型心理学派のパトリシア・ベリィによると、近親相姦は人間にとって元型的な領域への扉を開くものである。一方、フロイトからしてみれば、神話というのは過去に実際にあった事件が歪曲され虚構化されたものであり、だからこそ古代人には実際に近親相姦願望があったのだということを何とかして立証しようとしたのである。フロイトは論文「抑圧」で、狼に対する動物恐怖症の実例について、それは父親に対するリビドー的態度の表象の代替として生まれたものなのではないかと分析した。 ジャック・ラカンのように神話的構成自体に我慢がならず、エディプスコンプレックスを言語理論として捉えなおそうとした研究者もいる。ラカンは、エディプスコンプレックスとは、当初は母と子と想像的ファルス(φ)の想像的三角形が存在するところに父親が出現し去勢(-φ)が起こり、父、母、子と象徴的ファルス(Φ)の四項からなる構造になることを言うとした。しかし、1972年から1980年までの後期ラカンのセミネールでは、エディプスコンプレックス理論は、現実界・象徴界・想像界の三界がボロメオの結び目のような構造になっていることを指すものになっていった。ラカンは、性的袋小路を生み出す構造的不可能を合理化するために生み出された、虚構としての家庭における抑制に関する記憶は、想像されたものとして片付けられるものではなく、現実界によって保障されたものなのだと論じた。メラニー・クラインは、超自我が抑制しようとしているのは本来は近親姦的欲望に伴う破壊的欲動であって、結果としてリビドー的欲動も抑制されるというに過ぎないのではないかと主張した。また、エディプスコンプレックス理論はエドワード・ウェスターマークの身近な相手に性的欲望を持つことは少ないという「ウェスターマーク効果」の理論とも衝突しうる。フロイト自身はこの主張に対して、自然に近親相姦が防げるというのであればなぜ法律などで規制が行われなければならないのかと『精神分析入門』で疑問を投げかけていた。また、近親者への性的願望論が正しいとしても、実際の事件での近親相姦の事実そのものが幻想になるわけではないと、アンドリュー・ヴァクスは自らの小説『赤毛のストレーガ』の一エピソードとして挙げている。もっとも、フロイト自身も近親者による誘惑は実際には存在しないということを前提にして考えるべきではないと呼びかけてはいた。水島広子は、例えば親戚の男性に性的虐待を受けた女性が暴力的な男性と交際しているといった場合、トラウマという観点から起こっていることを理解することで自分を自分でコントロールする術を覚えていくことができるのだと論じた。 現在はエディプスコンプレックスの文化普遍性や実際の近親相姦の事例とどう関係するのかは棚上げした上で、フロイトの理論をどのようにみなせるかと考えられることが多く、ポップ・カルチャーでよく用いられる用語である。もっとも人文学でもフロイトの考えは一般的に受け入れられているわけではなく、かつては医師でフロイトと親交があったが小説家に転向したアルトゥル・シュニッツラーは1913年の小説『ベアーテ夫人とその息子』において、夫の死後に妻が息子と関係を持つという、母親主導型の近親相姦を描いている。ゲオルク・グロデックは、子供の体を洗う際、表面的には分からないものの母親はエスの領域で性的快感を子供に与えていることを感じていると主張した。ブロニスワフ・マリノフスキは、そもそも義母に対する回避行動等は立派な社会的文化的な事実であるため、診察室で人々を診ているだけで理論的に分かるわけがないと述べている。仲正昌樹は、そもそもフロイトはエディプス理論に自信がなかったために、1923年の『自我とエス』まで一般的な理論的定式にしなかった可能性もあると指摘する。もっとも、ゲオルク・グロデックは、息子の母親に対する近親姦的な衝動は同性愛のように目を背けられがちな事象であるわけで、フロイトはそのことを言ったということに意味があったと評価する。日本では母親と子供の関係が濃密であり、エディプスコンプレックス理論は成立しないという主張もあるが、きたやまおさむは言及されないということと存在しないということは別であり、保守的な社会秩序が保たれている以上は実際には日本でもエディプスコンプレックスは存在しているはずだとこの主張を批判した。 なお、オイディプスの理論は神経症において発見されたものなのだが、分裂症においても似たような事例があり、1924年にソジーの錯覚で両親を別人と認識する事例として報告された、父親への性的欲望と母親に対する敵意を感じる分裂症の女性の事例は、精神病は現実との断絶なのだというフロイトの理論を支持するものとなった。フロイトは去勢段階の系統的固着が早発性痴呆の素因になったという「転移神経症概要」という論文を準備していたが、草稿を見たフェレンツィから去勢されたら生殖できなくなるので、エディプスのような犯罪者がそれらの段階で出現したとでも考えない限りありえないと批判された。フロイトは近親相姦願望に基づく出来事による心的外傷は遺伝すると考えていた。フロイトとユングが衝突することになったのは、もともとユングの研究領域だった精神分裂症にフロイトがエディプスコンプレックス理論を適応しようとしたため、縄張り争いが発生したという事情もあった。
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精神分析学
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ジークムント・フロイトによってはじめられた精神分析学においては、列車による旅行の感覚と性的欲求とを関連付ける試みが行われた。1906年にフロイトは、鉄道旅行と性的欲求との関連性は、旅行中の列車の揺れによる心地よい感覚から来ていると書いた。それゆえに、性的欲求の抑圧が発生した際に、その人は鉄道旅行をしなければならなくなった際に、不安な感情を経験するというわけである。カール・アーブラハムは、列車の動きが自分では制御できないことの恐怖は、性的欲求が制御できなくなることへの恐怖の投影であると解釈した。1908年には、ウィルヘルム・ステケル(英語版)も鉄道恐怖症を列車が揺れる感覚と結びつけた。しかし、ステケルは鉄道恐怖症を、リビドーの抑圧に加えて、ごく幼少の頃に味わった揺さぶられる感覚を回想し、そのことについて羞恥心を覚えることとも結びつけた。
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精神分析学
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ファルス的シンボルは男性の生殖力を表すことを意味している。ジークムント・フロイトの精神分析学理論によると、男性は1つのペニスを所有する一方、誰も象徴的ファルスを所有することはできない、とされる。ジャック・ラカンは『エクリ』の「ファルスの意味作用」の中で、ファルスで「あること」と「持つこと」の相違を述べている。男性はファルスを「持つ」と見られる限りにおいて男性と定められる。ファルスを持たない女性はファルスで「ある」と見られる。象徴的ファルスは本源的な男で「あること」、ならびに、神の恵みを持つことと同等の「持つこと」の概念である。 ジュディス・バトラーはその著書『ジェンダー・トラブル』の中で、ファルスとペニスとの関連を指摘することによって、フロイトとラカンの象徴的ファルス論を論じた。この法はそれ自身の「自然」の概念への服従を命じる。それは身体の二元的・非対称的自然化を通してその正当性を得る。その中で、ファルス(ペニスとまったく同一ではないが)は自然化された道具・記号としてペニスを効果的に使う。さらにバトラーは『Bodies that Matter』の「レズビアン・ファルス」の中で、もしフロイトが、ペニス以外からのファルスの転移可能性を修辞的に正しいと主張する類推および置換を列挙するなら、その他の多くのものもファルスの代役をつとめるに違いない、と述べた。
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精神分析学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 00:43 UTC 版)
精神分析学は、性格への多次元的、複雑で包括的なアプローチを与える。ヘンリー・A・マレーによると、精神分析学とは、「個人差や性格のタイプを調査する人間の人生とその経過に影響を与える要因の研究に関心を持つ心理学の一部門...総体的な単位として捉えられた人間の科学... 『精神分析』(フロイト)、『分析心理学』(ユング)、『個人心理学』(アドラー)、そして知識の領域ではなく、調査方法や教義を表す他の用語を包含している」。全人的な観点から、精神分析学は、全体とシステムとして、同時にそのすべての構成要素やレベルを通して性格を研究する。 このアプローチに該当する理論の一つに、精神力動論がある。この理論は、ジークムント・フロイトによって考案され、3つの精神構造が私たちの性格を決定すると言う。これらの構造は、イド、自我、超自我である。イドは衝動を司り、超自我は理想化された自己や私達の道徳的なコードを司り、自我は理性的な思考を司っている。基本的には、イドの衝動を満足させつつ、超自我の道徳的規範の範囲内に留めることが自我の働きである[要出典]。 自我は、イドと超自我の対立する考えから自分の心を守るために防衛メカニズムを用いる。これらの防衛メカニズムは無意識のレベルで働き、人が脅迫的な出来事に対処する際に役に立つ。そしてこれらの防衛スタイルは、適応的な価値が異なる。したがって、脅迫的な出来事に対処できるようにその人に適切な変化を与えない防衛スタイルは、通常、否定のような未熟な防衛の繰り返し使用を示唆している[要出典]。
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