ウィルフレッド・ビオンとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ウィルフレッド・ビオンの意味・解説 

ウィルフレッド・ビオン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/23 09:48 UTC 版)

ウィルフレッド・ビオン
Wilfred Bion
1916年 軍服のビオン
生誕 (1897-09-08) 1897年9月8日
 インドマトゥラー
死没 (1979-11-08) 1979年11月8日(満82歳没)
イギリスオックスフォード
白血病
居住 イギリス
 インド
国籍 イギリス
研究分野 精神医学
精神分析学
対象関係論
出身校 オックスフォード大学
ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン
プロジェクト:人物伝
精神分析学のシリーズ記事 
精神分析学

ウィルフレッド・ループレヒト・ビオン: Wilfred Ruprecht Bion1897年9月8日 - 1979年11月8日)はイギリス医学者精神科医精神分析家[1]

メラニー・クラインドナルド・ウィニコットロナルド・フェアバーンらと並び称されるイギリス精神分析家である。第一次、第二次世界大戦に従軍した[1]

略歴

1897年9月8日イギリス領インドマトゥラー生まれ。1922年オックスフォード大学卒業。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンにて医学を学び、1929年医師資格取得。1933年-1948年タビストック・クリニック勤務、後に所長。

父の仕事の都合でインドを転々としていたが、8歳の時にイギリスの寄宿学校に1人で入ることになり、それ以後、インドに戻ることはなかった。19歳の時に第一次世界大戦が始まり、ビオンは戦車隊に配属された。そこでは非常に過酷な状況であり、友人の死や部隊の壊滅などに遭遇することとなった。そのことはビオンが後々にまで悪夢にうなされる原因となった。除隊後には高校教師をすることになったが、男子生徒との性関係を疑われ、仕事を辞めざるをえなくなった。その後、医師になるために医学部に入学した。また、その後の第二次世界大戦ではビオンは戦争神経症の治療を軍部ですることになり、その際にグループワークに携わることになった。この時の経験が、基底想定グループの研究へとつながった。

その戦争も終結し、ビオンはグループワークの研究から徐々に離れ、精神分析家の道へと進むこととなり、メラニー・クラインの訓練分析を受けるようになった。ビオンは精神分析家になるまでに相当の回り道をしており、当時にしてはかなり遅い50歳になってようやく精神分析家となった。その後、ビオンは精神病の精神分析の経験から、グリッド、思考の理論、コンテイナー・コンテインド理論など早期乳幼児期を念頭においた理論構築を精力的におこなっていった。この影響は非常に大きく、現代の精神分析や対象関係論を理解する上で欠かせないものになっている。[2]

出典

[ヘルプ]
  1. ^ a b 小此木啓吾 他(編) 『精神分析事典』 岩崎学術出版社2002年ISBN 9784753302031 pp.534-535
  2. ^ ビオンにおける対象関係論の発展

関連人物

関連項目

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ウィルフレッド・ビオン」の関連用語

ウィルフレッド・ビオンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ウィルフレッド・ビオンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのウィルフレッド・ビオン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS