超自我
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:11 UTC 版)
超自我は、自我とエスをまたいだ構造で、ルール・道徳観・倫理観・良心・禁止・理想などを自我とエスに伝える機能を持つ。 厳密には意識と無意識の両方に現れていて、意識される時も意識されない時もある。ただ基本的にはあまり意識されていないものなので、一般的には無意識的であるとよく説明される。父親の理想的なイメージや倫理的な態度を内在化して形成されるので、それ故に「幼少期における親の置き土産」とよく表現される。精神分析学においてはエディプス・コンプレックスという心理状態を通過して形成されると考えられている。 超自我は自我の防衛を起こす原因とされている。自我が単独で防衛を行ったり抑圧をしたりするのは稀であるとフロイトにおいては考えられている。また超自我はエスの要求を伝える役目も持っており、例えばそれは、無意識的な欲求を知らず知らずのうちに超自我の要求を通して発散しているような場合である。他にも超自我は自我理想なども含んでいると考えられ、自我の進むべき方向(理想)を持っていると考えられている。夢を加工し検閲する機能を持っているので、フロイトは時に超自我を、自我を統制する裁判官や検閲官と例えたりもしている。 超自我は前頭葉のはたらきと関係があるとされているが、脳科学的実証はされていない。 (以下は、英語版Wikipedia「Super-ego」の訳である) 超自我(スーパー・エゴ)とは、文化的な内在化された規範を反映したものであり、主に、両親が子供に案内したり子供に影響を与えるために、子供に教え与えたものである。フロイトは、より早期の、「自我」という概念と、「『自我』による自己愛的な満足を監視する、我々が良心と呼ぶ特別な精神的装置」という概念との組み合わせから、この「超自我」という概念を発展させた。フロイトから見れば、超自我を取り込むことは、親の助けによる、親との同一視の成功として理解される。超自我が発達するにつれて、教育者や教師や道徳のモデルとして選ばれた人など、親の立場に立つ人達からの影響を取り込むようになる。 超自我は完璧を目指す。超自我は、人柄(パーソナリティ)の組織化された一部分である。超自我は、概ね無意識的に行われるが、完全に無意識的ではない。超自我は、個人の自我の概念を含み、精神的目標を含み、自分の欲求や空想や感情や行動を批評したり禁止したりする、通常は良心と呼ばれる精神的装置を含む。超自我は、悪いことに対して、罪の意識と共にこらしめるような、ある種の良心であると考えることができる。例えば、婚姻外の情事に対する罪の意識である。この意味において、超自我は、「内的な批評家」を概念化したものであり、それは「IFS」や「声の対話」のような現代の治療法においても示される。 超自我は、イドとは反対方向に働く。イドは、その場の自己満足を求めるのに対して、超自我は、社会的に適切な方法で行動するよう求めて、イドと戦う。超自我は、我々の正誤の判断や、罪の意識をコントロールする。超自我は、社会的に容認される行動を行うように我々を仕向けて、我々が社会に適合するのを助ける。超自我の要求は、しばしばイドの要求とは反対であり、自我は、両者を和解させようとして、困難な時を過ごす。 フロイトの学説によれば、超自我は、父親の存在や文化的な統制を、象徴的に内在化させたものである。超自我は、イドの欲求に反対する立場を取りやすい。両者は、同一の目標物を争っており、自我に絶え間ない働きかけを行っている。超自我は、良心として働き、我々の倫理感やタブーによる禁止を維持する。超自我と自我は、子供時代の無力さとエディプス・コンプレックスという2つの鍵となる要因の産物である。少年は、去勢されることを恐れて、母親を性的愛情の対象にすることができないが、その後に、少年の超自我は、エディプス・コンプレックスが消滅するにつれて、父親の存在を同一視により内在化しながら形成される。 フロイトは、著書「自我とイド」(1923年)の中で、次のように述べている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}「超自我は、父親の特質を維持し続ける。エディプス・コンプレックスが強力であったほど、そして、(権威や宗教教育や学校教育や読書の影響下で)抑圧によるそれの消滅が速かったほど、良心あるいは意識されない罪悪感という形で、超自我の自我に対する優勢は、後でより圧倒的になる」。 超自我の概念やエディプス・コンプレックスは、その男性上位主義により批判の対象になっている。女性は、すでに去勢されていると見なされるのであるが、父親とは同一視を行わないので、フロイトは次のように述べている。「女性の超自我は、非情であり、人間味が無く、感情に動かされて気ままである。女性が行う判断は、愛情や敵意のような感情から、多くの影響を受けている」。しかし、フロイトは、自分の立場を修正し続けており、次のように述べている。「大多数の男性は、理想的な男性からは程遠い。全ての人間は、両性的な性質を持ち、異性の親から影響を受けるので、男性的な性質と女性的な性質の両方を併せて持っている」。 シグモンド・フロイトの著書「文明とその不満」(1930年)の中で、フロイトは「文化的超自我」について、次のように述べている。「超自我の要求は、普遍的な文化的超自我の教訓と一致する。この点において、集団としての文化の発展と個人としての文化の発展の二つの過程は、かつてもそうであったように、常に連結している」。倫理感は、文化的な超自我の中心的な要素である。フロイトは、分析的な道徳家として、「文化的超自我や、文化的超自我の倫理的な要求に対して、心理学的ではない方法で研究を進める仕方」に反対した。そして、「文化的超自我は、人間の精神的な構造についての事実と、整合する」と述べた。
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