戦闘の終結 (1949年)
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「ギリシャ内戦」の記事における「戦闘の終結 (1949年)」の解説
ギリシャ共産党とギリシャ民主軍に対する打撃は思わぬ方向からやってきた。1948年6月、ソ連および東欧諸国はチトー率いるユーゴスラビアとの関係を断絶。ユーゴスラビアから多大な援助を受けていたギリシャ共産党はこの事件によりソ連支持派とユーゴスラビア支持派に分裂した。ギリシャ内戦で何度も繰り返されたように、味方同士の争いが生じ、このような混乱を嫌ったユーゴスラビアがユーゴ国内のギリシャ民主軍キャンプを解体、国境を閉鎖するなどギリシャ民主軍にとって環境は悪化する一方であった。ギリシャ民主軍はアルバニア国内を拠点に活動を続けたが、その勢力は目に見えて落ち込んでいった。 ギリシャ軍は、8月に北部山岳地帯において攻勢を開始した。軍はギリシャ民主軍の部隊を各地で破り、9月にはギリシャ民主軍のメンバーは大部分が降伏するか、アルバニアへと逃亡していた。しかしアルバニアも国内でのギリシャ民主軍の活動を禁止し、ついに10月16日、ギリシャ民主軍の指導者ニコラオス・ザカリアディスは戦闘中止を発表した。ギリシャ内戦はこれをもって終わりを告げた。 アメリカはギリシャ内戦の終結を、冷戦下における自由主義陣営の勝利であると宣言した。実際には、ソ連はゲリラ側をほとんど支援しておらず、1944年ギリシャ人民解放軍にギリシャを掌握する機会が訪れた時も、ギリシャ共産党に命令してその動きを制した。
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