冷戦下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 13:59 UTC 版)
第二次世界大戦後も路線の重要性は変わらなかったが、冷戦下のソ連は太平洋艦隊の軍港であるウラジオストクへの外国人立ち入りを禁止したため、1956年(昭和31年)に国交が回復した日本との貿易や、シベリアを横断する外国人の往来には、ウラジオストクの東側にある商港ナホトカが利用され、シベリア鉄道からは支線を利用することになった。外国人乗客はロシア号の乗車がモスクワ - ハバロフスク間に限定され、ハバロフスク - ナホトカ間は連絡列車を利用した。 1950年代以降に東南アジアや中東、アンカレッジを経由しての欧亜間航空路の発達により旅客ルートとしてのシベリア鉄道の重要性は低下したが、貨物取扱量は冷戦時代でも年々増加した。また、1984年にはシベリア鉄道の北側にバム鉄道が全通し、シベリア開発の両輪となった。
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