冷戦の終結と新世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 14:45 UTC 版)
「ドイツ海軍 (ドイツ連邦軍)」の記事における「冷戦の終結と新世紀」の解説
1980年代半ば、3つの要因が連邦海軍に新しい方向性を位置づけた。一つ目はソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ書記長がペレストロイカを推進し、米ソ首脳会談で核軍縮やアフガニスタン問題の解決に向けて歩み寄り、これに合わせてヨーロッパ情勢の変化のための政府間交渉を開始したことである。バルト海正面での脅威の低下は連邦海軍に完全な転換を必要とさせた。二つ目はNATO域外での新たな紛争である。イラン・イラク戦争で1987年にNATO加盟各国の海軍は石油タンカー等を護衛するためペルシャ湾に艦艇を派遣し、従来展開していた地中海に「力の空白」を生じた。西ドイツ海軍はこの空白を埋めて均衡を維持するために代替役を果たす必要性に迫られ、以来、艦艇部隊は地中海に常時展開する事になる。三つ目に、従来の装備を可能であれば早期にでも最新の武器システムへと一対一で更新する事が求められた。特に老朽化が著しかった第一世代掃海艦艇は最新艦艇に更新された。 1990年の東側5州の連邦共和国への加盟により東西ドイツ統一がなされ、1991年に海軍総監ハンス=ヨアヒム・マン海軍中将は2005年を目標とする、統一ドイツ海軍として更なる発展のための指針を提示する。 東西ドイツ再統一により旧東ドイツの人民海軍(Volksmarine)が編入され、統合事業が始まる。1995年に海軍指導部は組織の連続性にもかかわらず、これまで非公式ながらも使用されてきた「連邦海軍(Bundesmarine)」を「ドイツ海軍(Deutsche Marine)」に改め、以後は公式文書で旧名称を使用しないように通達が出された。 1990年以降、連邦海軍は基本的には以前の組織構造を維持したが、連邦軍全体は徐々に縮小されつつあり、連邦海軍も同様に削減される事になる。2プラス4条約の規定により旧東ドイツ地域は1994年末までNATO指揮下軍隊の入域を禁止していた。したがって、旧人民海軍の将兵達は当初のまま維持され、当初はシュトラウスベルクに設置された連邦軍東部司令部隷下にあるロストック海軍司令部の全面指揮下におかれた。そして1995年から統一ドイツ海軍は同一標準の新組織構造を採用しNATO加盟国による旧東領域への駐留を可能とした。東部海軍司令部は解散され、代わりに一部の新部門は東側地域に設立され(東部海軍司令部は一部が海軍術科学校に)、他には西側からいくつかの部隊や機関が移転する(高速艇隊群や海軍局)。 2000年にルドルフ・シャーピング連邦国防大臣は連邦軍制度改革の海軍組織について抜本的に変更する。一方、連邦軍の緩やかな継続的変革はこれまでの普通段階から踏み出して一挙に進められ、海軍はこの方針に拘束される。 1990年以前はバルト海で活動することを前提とした小型艦艇が主流であり、このため大型艦については異なる艦種を調達していた。同時に海軍将兵の定数は約25,000人まで削減される。これにより海軍の勢力は他軍種との構成比率が1990年以前の約10%からほぼ7.7%まで縮小される。 NATOの沿海域での活動について、ドイツ海軍は自己の経験を反映しより良いアイデアを伝達するため、2007年に浅海域制限作戦センター(COE CSW)をキールに設置し、2009年にNATOに公認される。
※この「冷戦の終結と新世紀」の解説は、「ドイツ海軍 (ドイツ連邦軍)」の解説の一部です。
「冷戦の終結と新世紀」を含む「ドイツ海軍 (ドイツ連邦軍)」の記事については、「ドイツ海軍 (ドイツ連邦軍)」の概要を参照ください。
- 冷戦の終結と新世紀のページへのリンク