冷戦の終結
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「アメリカ合衆国の歴史 (1980-1991)」の記事における「冷戦の終結」の解説
レーガン政権はソビエト連邦に対して強硬路線を採用していた。その1期目にはライバルを「悪の帝国」と呼んで攻撃した。ソ連によるアフガニスタン侵攻に続いて「デタント」政策を公式に終わらせたのはジミー・カーターだったが、1980年代初期に東西緊張関係はキューバミサイル危機依頼の高みに達した。戦略防衛構想はレーガン時代の米ソ関係悪化の中で生まれた。当時の大衆はこれを「スター・ウォーズ」と呼んだが、飛び来るソビエトのミサイルを打ち落とすことの出来るミサイル防衛システムに巨額の研究費が掛けられ、相互確証破壊の可能性を排除することが目指された。 ソ連はレーガンが1981年に就任する前に、1976年にはその社会主義同盟国ベトナムが統一を成し遂げ、東南アジア、ラテンアメリカおよびアフリカで社会主義革命の連鎖が起こるなど、国際的な場面で大きな成果を挙げていたが、1960年代と1970年代に第三世界諸国との結び付きを強めたことはアメリカに対する絶対的な弱さを隠していたに過ぎなかった。ソ連の経済は構造的に厳しい問題に苦しんでいた。1964年から1982年に掛けての改革は滞り、消費財の供給不足はさらに周知の事実になっていた。 東西緊張関係はミハイル・ゴルバチョフの登場後に急速に緩和された。1982年以降にソ連の古い指導者3人が続けて死に(レオニード・ブレジネフ、ユーリ・アンドロポフ、コンスタンティン・チェルネンコ)、ソビエト政治局は1985年にゴルバチョフをソビエト共産党の指導者に選び、新しい世代の指導者の時代を画することになった。ゴルバチョフの下で比較的若い世代の改革を指向する官僚が急速に権力を掌握し、政治と経済の自由化の新しい機運を与え、西側との友好的な関係を築き貿易を行うべく推進力となった。 ゴルバチョフは「ペレストロイカ」政策を進め、消費財の生産を高めるために戦ったが、一方で冷戦時代の軍拡競争、また片方では社会主義同盟国が期待を増すようになっていた莫大な対外支援と軍事援助という双子の重荷の中では不可能だった。アメリカは軍拡が莫大な重荷になるとレーガン政権が警告していたことを、ゴルバチョフの下のソビエト政治指導者達は次第に認めるようになった。ソ連は既に防衛のために巨大な予算を費やしており、戦略防衛構想に対抗するものを開発することは、その経済では到底なしえない事態になっていた。ソビエト連邦の選んだ道はアメリカ合衆国と妥協し、経済を立て直し(ペレストロイカ)、国内の民主化を進める(グラスノスチ)ことであり、それが結果的にゴルバチョフにとっては中央のコントロールを確保することを不可能にした。この後レーガン政権のタカ派は、増大するアメリカの防衛予算から逃れようとすることが改革のもう一つの推進力になったと論じてきた。 冷戦時代に世界が対立する2つの陣営に分かれていたことは、北大西洋条約機構に加盟する西ヨーロッパ諸国だけでなく、開発途上の多くの国を広く拡散した同盟にまとめることに貢献していた。しかし1980年代後半からは東ヨーロッパのワルシャワ条約機構諸国の政権が急速に崩壊を始めた。1989年の「ベルリンの壁崩壊」は東欧共産主義政権の凋落を象徴する出来事となった。1980年代後半、1987年の中距離核戦力全廃条約とソ連軍のアフガニスタンさらにはキューバやアンゴラからの撤退によって、米ソ関係は著しく改善された これらワルシャワ条約機構諸国と同じ時代にアメリカの支援で民主化を進めていたチリや大韓民国のような弾圧的政権に支持を与える合理性は、このような展開下では無くなっていた。アメリカの政治解説者の中には、冷戦時の2つの超大国間の関係良化が、アメリカの軍事費を削る「平和の配当」に導くことになると考える者もいた。しかしこの考え方は湾岸戦争の勃発とともに政治的議論の場を失った。レーガンの後任、ジョージ・H・W・ブッシュは「新しい世界秩序...テロの恐怖からの解放、より強力な正義の追求、さらなる平和の追求、東と西、北の南の世界の国々が調和を保って繁栄し生きて行ける時代」の出現を訴えた。 バルト三国における独立を求めた愛国主義者の扇動によって先ずリトアニア、続いてエストニアとラトビアがソビエト連邦からの独立を宣言した。1991年、ソビエト連邦は解体され、15の構成要素に分かれた。冷戦が終わり、ユーゴスラビアやソマリアの政権が崩壊した後に生じた空白によって、権威主義者の長年の支配下で埋もれていた敵意が表面に出るか、再開された。アメリカの大衆、さらには政府の中であっても、アメリカの関心にはほとんどあるいは全く繋がらない地域紛争に介入することを躊躇する向きはあったが、これらの紛争は共産主義が強い脅威ではなくなった時代の西側同盟関係を更新する基盤となった。ビル・クリントン大統領はその就任演説で、「今日、古い秩序が去り、新しい世界は前より自由だが安定はしていない。共産主義の崩壊は古い敵意を呼び出し、新しい危険性を生じさせた。アメリカは明らかにこれまでなしてきたように世界を導き続けなければならない。」と語った。 冷戦終結以降、アメリカは冷戦時の制度構造、特にNATOを再活性化し、さらには国際通貨基金や世界銀行のような多国間制度を再編することを求め、そのことによって地球規模の経済改革を促進しようとした。NATOは当初ハンガリー、ポーランドおよびチェコ共和国を加盟させて拡大し、その後もさらに東方に進んだ。さらにアメリカの政策は、1994年に効力を発揮した北アメリカ自由貿易協定(NAFTA)でうたっている新自由主義「ワシントン合意」を強調するようになった。 アメリカ合衆国はテロを支援したり、大量破壊兵器を拡散することに関わったり、あるいは重大な人権侵害を行う国に経済制裁を発動することが多くなった。この動きには、1989年の六四天安門事件で大衆を武力弾圧した中華人民共和国に対する武器販売に課した禁輸措置や、イラクがクウェートに侵攻した後で課した制裁措置のように合意を得るものもある。しかしイランやキューバに課したような多国間制裁に関しては限定的であり、アメリカの国内法を侵犯した外資企業を罰するために連邦議会が新しい法を課すことになった。 国際政治学者サミュエル・P・ハンティントンは1999年に「フォーリン・アフェアーズ」誌に寄せた論文で、この冷戦後の世界の状況を強化するために次のように記した。 アメリカ合衆国は、多くの事項のなかでも次のような事項を多かれ少なかれ多国間で試み、あるいは試みていると認識されてきた。他国に人権と民主主義に関してアメリカの価値観を採用し実行するように促すこと。他国がアメリカの伝統的優越性に対抗できるような軍事力を持つことを阻止すること。他の社会に国境を越えてアメリカの法を強制すること。人権、薬物、テロ、核拡散、ミサイル拡散および信教の自由に関してアメリカの基準に従う程度で他国を格付けすること。これらの問題でアメリカの基準に従わない国を制裁すること。自由貿易と開放市場というスローガンでアメリカ企業の利益を上げること(NAFTAとGATT(関税と貿易に関する一般協定)が1990年代自由貿易政策の主要例である)。上述企業の利益のために世界銀行と国際通貨基金の政策を形作ること。比較的直接の関心が薄い地域紛争に介入すること。海外へのアメリカ製武器販売を促進し、他国による同様な販売を阻止しようとすること。国際連合事務総長(ブトロス・ブトロス=ガーリ)を更迭し、後任の指名を指示すること。NATOを当初ポーランド、ハンガリーおよびチェコ共和国を含むように拡大し、その他は容れないこと。イラクに対して軍事行動を採り、後にはその政権に対して厳しい経済制裁を維持すること。および特定の国を「ならずもの国家」に分類し、世界的制度からは排除すること。 アメリカの政策に関する別の影響力ある解説者マックス・ブートは、冷戦後のアメリカ合衆国の大変大望ある目標について次のように論じている。 専制国家として知られる国に民主主義を植え付けること、そうすることでテロ、武力侵略および兵器拡散を防止できると期待すること。 さらに次のようにも付け加えている。 これは実行中の大望である。その最も成功した例は第二次世界大戦後のドイツ、イタリアおよび日本である。これらの場合、アメリカ軍が軍事独裁制の国を自由な民主主義の柱に変えることに貢献した。これは20世紀における最も重要な発展の一つである。
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冷戦の終結
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東欧革命は、イデオロギー抗争という面を持った冷戦を終わらせた。特にベルリンの壁の崩壊によって、冷戦の最大懸案事項になっていたベルリン問題の解決に目処が付いたことが、理由としては大きい。1989年12月3日、マルタにおいてアメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュとソ連共産党書記長(当時)のミハイル・ゴルバチョフが会談(マルタ会談)を行い、冷戦の終結が宣言された。冷戦の終結の意義は、世界史的に見てもきわめて大きい。 そして、東欧革命から2年後、1991年7月1日にはワルシャワ条約機構が廃止され、同年12月25日にはソビエト連邦が崩壊した。そして、ソビエト連邦が崩壊すると、米露二大国による「核兵器による平和」は崩壊し、インドやパキスタンを始め世界中に核兵器が拡散した。
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