冷戦の激化と緩和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:42 UTC 版)
「ロナルド・レーガン」の記事における「冷戦の激化と緩和」の解説
留まる事なく軍備増強を続けた結果、ソ連の軍事力は1980年代初頭までにアメリカのそれを凌駕するまでに巨大化していた。それまでアメリカの軍備は数の上ではソ連に及ばないものの、技術面ではソ連を寄せ付けない先端技術を保持し続けており、これがソ連に対する「質の脅威」であり得たが、1980年代におけるソ連の科学技術の進歩はこの両者の開きをかつてないほど狭いものにしていた。 その槍玉にあげられたのがデタントだった。レーガン政権は、デタントを「米ソ両国の力の均衡を維持することに役立っただけで、冷戦そのものの解決には全くならなかったばかりか、いたずらにこれを長期化させる原因」であるとして否定し、ソ連を「悪の帝国」と名指しで非難。代わりに「力による平和」と呼ばれる一連の外交戦略でソ連と真っ向から対抗する道を選んだ。その概要は以下の通りである。 国防予算を大幅に増額してスターウォーズ計画を一方的に推進する ソ連はこれに追いつこうとするあまり、より一層の無理を強いられる その結果アフガニスタン侵攻の泥沼化でただでさえ逼迫しているソ連の国家財政は破綻し、社会保障制度が麻痺する ソ連の国民はそんな共産主義政権を見限りソビエト連邦は崩壊する というシナリオだった。 果たしてその読み通り早くも1980年代中頃になるとソ連の財政赤字は肥大化し、財政は危機的状況に陥った。1984年にはレーガンはソ連とその同盟国を除いた1984年ロサンゼルスオリンピックを挙行して西側諸国の結束を誇示した。また1985年にゴルバチョフが書記長に就任すると、「グラスノスチ」によりソ連の危機的状況が西側にも明らかとなり、アメリカはソ連から核兵力・通常兵力・対東欧諸国政策のすべてにおいて大幅な譲歩を引き出すことに成功した。西側諸国の一員である日本も防衛費1パーセント枠を1987年より廃止し防衛費を一時的に増額した。 「中距離核戦力全廃条約」を参照 こうしたソ連の態度軟化を変化の兆しと見たレーガンは自らも強硬な外交路線を修正し、ゴルバチョフに対してはこれまでの改革を評価するとともに、より一層の改革を行うことを促した。 レーガンはゴルバチョフとジュネーヴ(1985年11月)・レイキャビク(1986年10月)・ワシントンD.C.(1987年12月)・モスクワ(1988年6月)と4度にわたって首脳会談を行っている。主な議題はいずれも軍縮と東ヨーロッパ問題だったが、1回目は米ソ首脳が6年半ぶりに会談すること自体に意義があり、2回目は物別れに終わったもののゴルバチョフが交渉に値する人物だという確証を得ることができた。そもそもレーガンは3回目のワシントン会談でゴルバチョフを訪米させることにかけていた。終わりの見えない不況と、あってなきが如き社会保障制度に喘ぐソ連の国民が、好景気に沸くアメリカ社会の実態を間近に垣間見る機会があれば、彼らが現在の体制に疑問を抱き、やがて不満が爆発するであろうことは十分に予見できた。そして、この自国民による「内圧」がアメリカによる「外圧」よりもはるかに強い力となって、実際にゴルバチョフ政権とソビエト共産党を根底から揺さぶり始めるのに、そう時間はかからなかった。 翌年モスクワを訪問したレーガンを、ソ連のメディアはまるでハリウッドスターのような扱いで好意的に迎えた。あるジャーナリストから、まだソビエトのことを「悪の帝国」と考えているかと質問されたレーガンは、はっきり「いいえ」と答え、「あれは別の時、別の時代のことを指した言葉です(“I was talking about another time, another era.”)」とつけ加えることを忘れなかった。そんなレーガンに、ゴルバチョフはモスクワ大学で自由貿易市場についての特別講義をすることまで依頼している。 後に回想録『An American Life』の中で、レーガンは当時ソ連が取りつつあった新しい方向を楽観的に見ていたこと、腹を割った会話ができるまで気心知れる盟友にまでなったゴルバチョフに対しては極めて親密な感情を抱いていたこと、そして大規模な改革を急速に断行するゴルバチョフ政権の帰趨や本人の生命を真剣に心配していたことなどを記している。また当時、2人の親密な関係を指して「Rega-Chev(レガーチェブ)」と読んだ新聞さえ出現した。また、冗談交じりに宇宙人の襲来を仮定した冷戦終結と米ソ協調の可能性をゴルバチョフと語ることもあり、この比喩は1987年の軍縮のための国連演説でも用いられた。 大統領退任後に「レーガン・ドクトリン」によって地道に支援されてきた東ヨーロッパの反共産主義運動は、モスクワの屋台骨が揺らぎ始めると、1989年8月にハンガリー政府当局が約1000人の東ドイツ国民を自国経由でオーストリアに脱出する手助けをするという「ピクニック事件」が起きたのを皮切りに、11月にはドイツでベルリンの壁が崩壊し、チェコスロバキアではビロード革命が共産党による一党独裁制を廃止し、12月にはブルガリアの共産党政権が崩壊し、ルーマニアではチャウシェスク独裁政権を血祭りにあげるなど、東ヨーロッパ諸国は雪崩を打って民主化を果たし、レーガンの後任であったジョージ・H・W・ブッシュとゴルバチョフのマルタ会談が行われて冷戦は終結した。ソビエト連邦が解体されたのは、それから2年後のことだった。 1980年に国際連合で採択された特定通常兵器使用禁止制限条約には1982年に署名した。
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