冷戦による東西ベルリンの分断とは? わかりやすく解説

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冷戦による東西ベルリンの分断

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 14:39 UTC 版)

ベルリン地下鉄」の記事における「冷戦による東西ベルリンの分断」の解説

ベルリン市街戦によって地下鉄甚大な被害受けたものの、1950年までに復旧完了し69.5km、93駅での営業こぎつけた。しかし、連合国によるベルリン分割占領と、それに続く東西ベルリン分裂地下鉄運行にも影を落とし境界線上で警笛鳴らして運行せざるを得なかった。 戦後路線の延伸続けられ1953年1955年にかけて総延長200kmを目指す延伸工事着手された。手始め1958年5月31日までにC号線(現在のU6号線)は、既存のテンペルホーフ駅(ドイツ語版)からゼーシュトラーセ駅(ドイツ語版)までの区間を、アルト=テーゲル駅(ドイツ語版)まで延伸した。また西ベルリン南北東ベルリン避けて結ぶ路線としてG号線(現在のU9号線)が着工された。なお1961年開業目前ベルリンの壁建設され開業繰上げられた経緯がある。 壁の構築後は、東西ベルリン行き交う運行は完全に停止しベルリンの壁#国境封鎖そして有刺鉄線)、A号線東西分断一部区間運休追い込まれた。但しC号線とD号線については(西ベルリン当局東ドイツ政府2000マルク支払って東ベルリン内での通行認められ唯一フリードリヒシュトラーセ駅でのみ(東ドイツ当局認可した範囲内で)同駅で接続するSバーンとの乗り換え限って客扱い認めることになり、残り東ベルリン内の駅は通過扱いとなった幽霊駅)。

※この「冷戦による東西ベルリンの分断」の解説は、「ベルリン地下鉄」の解説の一部です。
「冷戦による東西ベルリンの分断」を含む「ベルリン地下鉄」の記事については、「ベルリン地下鉄」の概要を参照ください。

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