冷戦の原因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 04:11 UTC 版)
「アメリカ合衆国の歴史 (1945-1964)」の記事における「冷戦の原因」の解説
第二次世界大戦のヨーロッパ戦線が1945年5月8日に終わった時、ソビエト連邦と西側諸国(アメリカ、イギリス、フランス)の軍隊はドイツの中心を通る前線に位置していた。この前線について多少の調整が行われたものの、それがそのまま冷戦時の鉄のカーテンになった。ポツダム会談で合意されたように、オーデル・ナイセ線の東に住むドイツ国民は強制移住された。後に分かったところでは、ヤルタ会談で両陣営がドイツに留まり、どちらも他方を追い出すために軍事力を行使しないという合意に達していた。この暗黙の合意はアジアにも適用され、日本のアメリカ軍による占領と朝鮮の分割になった。冷戦の始まりとともに、短期間の戦後現状維持があったが、1949年に中国が共産主義勢力の手に落ちたことで変わった。共産主義勢力が世界のほぼ3分の1を支配し、一方アメリカ合衆国は世界の超大国となって残り3分の2に影響力を持ったが、その中でもマルクス主義運動の挑戦を受ける国があった。 アメリカ合衆国とソビエト連邦のビジョンには、民主主義を伴う資本主義と一党独裁制を伴う共産主義という基本的な違いがあり、この違いは大戦による惨状によって1945年にそれぞれが正当性を証明した2つの生き方を表す国のイデオロギーの中に単純化され作り上げられてきた。 1945年4月以降ハリー・S・トルーマンが指導するアメリカ合衆国は、世界の市場を資本主義的原理に開放し、戦後世界を大西洋憲章が道筋を付けた原則に従って形作ることに決めた。すなわち、民族自決、平等な経済機会、および世界事情の中で中心となって活動できる資本主義ヨーロッパの再建だった。第二次世界大戦はユーラシア全体のインフラや大衆を破壊し尽くしており、無傷でいられた国はほとんど無かった。無傷に近い世界の主要工業国と言えば、経済面からは大きく強化されてすらいたアメリカ合衆国だった。 アメリカ合衆国は、世界銀行と国際通貨基金という新しい国際機関でその世界観を浸透させようともした。これらは開放的で資本主義の国際経済を確保するために創設された。ソビエト連邦はこれらに加わらなかった。 ソビエト連邦はその境界線で資本主義を封じ込め押し返すことが重要だとも見ていた。ヨシフ・スターリンはポーランド、ルーマニア、東ドイツおよびブルガリアに親モスクワ政権を押し立てることに決めた。これはヤルタ会談で東ヨーロッパには「自由選挙」が行われると請け合った自身の声明と矛盾していた。イギリスの前首相ウィンストン・チャーチルは1946年に、スターリンが「鉄のカーテン」で新しいロシア帝国の領域を閉鎖しようとしていると非難した。
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