冷戦の変容とは? わかりやすく解説

冷戦の変容(1963年-1968年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 03:08 UTC 版)

「冷戦」記事における「冷戦の変容(1963年-1968年)」の解説

キューバ危機によって核戦争寸前状況経験した米ソ両国は、核戦争回避するという点において共通利益見出した。この結果米英ソ3国間で部分的核実験禁止条約ホットライン協定などが締結された。しかし、部分的核実験禁止条約中国フランス反対し、東西共に一枚岩でないことが明白となったシャルル・ド・ゴール統治下のフランスは、アメリカ主導NATO反対し、1964年には同様に米ソと距離を置いていた中国西側諸国では最も早く国家承認した。また、1967年ド・ゴールは外訪先であるカナダ開催されモントリオール万国博覧会で、「自由ケベック万歳!」と演説し、今も続くケベック独立運動火を付けた米ソ両国軍拡競争進行しベトナム戦争契機とする反戦運動黒人公民権運動とそれに対抗する人種差別主義者対立などによって国内混乱マーティン・ルーサー・キング師やロバート・ケネディなどの要人暗殺横行して社会不安陥った第二次世界大戦終結時アメリカ合衆国以外主要な交戦国戦災著しく疲弊していたので、世界経済規模対すアメリカ合衆国の経済規模比率突出して大きかったが、戦災から復興した日本西ドイツ未曾有の経済成長遂げ西欧経済的に復活する中で、世界経済規模対すアメリカ合衆国の経済規模比率相対的に減少したチェコスロバキアプラハの春呼ばれる民主化改革路線取ったが、ソ連制限主権論に基づきワルシャワ条約機構軍による軍事介入行い武力でこれを弾圧した。なお、ニコラエ・チャウシェスク率いルーマニア社会主義共和国ワルシャワ条約機構加盟国ありながらソ連介入公然と批判して独自路線行いアメリカなど西側諸国から巨額援助受けたまた、アルバニアスターリン批判以来中華人民共和国寄り姿勢貫いてワルシャワ条約機構離れ中華人民共和国リチャード・ニクソンの訪中契機アメリカに近づいてソ連決別北朝鮮主体思想掲げてソ連から離反したイタリアスペイン日本など西側諸国共産党のうちいくつかソ連型社会主義反発しソ連影響から離脱したユーロコミュニズム)。こうして今に至る共産主義多極化起こった主な出来事 ベトナム戦争1960年-1975年チェコスロバキアプラハの春1968年中ソ対立1960年代-1989年

※この「冷戦の変容(1963年-1968年)」の解説は、「冷戦」の解説の一部です。
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