ド‐ゴール【Charles André Joseph Marie de Gaulle】
ドゴール
シャルル・ド・ゴール
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シャルル・アンドレ・ジョセフ・マリー・ド・ゴール(フランス語: Charles André Joseph Marie de Gaulle、1890年11月22日 - 1970年11月9日)は、フランスの政治家、陸軍軍人。同国第18代大統領(在任:1959年1月8日 - 1969年4月28日)。
注釈
- ^ シャルル(シャルル・コルブ・ベルナール)を参照。
- ^ ジャンヌの父(Jules Emile Maillot, 1819-1891)、父の母(Louise Constance Kolb, 1792-1877)、その兄弟(Henri Louis Benjamin Kolb, 1808-1876)、その娘(Marie Anne Thérèse Emilie Kolb, 1855-1907)、その伴侶がオンベルグである。
- ^ ドイツ軍の砲撃で重傷を負い「気絶」したが、「戦死」と判断されて死体運搬車に乗せられた。しかし輸送途中に意識を取り戻し、事なきを得たという。戦死と聞かされたペタンは個人的な弔辞を作成したという。
- ^ 「天女の宿」には、後にロシア連邦(ソ連)の赤軍元帥となり、スターリンによって粛清されたトゥハチェフスキーがいた。トゥハチェフスキーはド・ゴールに対し、「未来は我々のものだ、くよくよするな」と捕虜生活を慰めたという。
- ^ その時の赤軍司令官は、共に捕虜生活を過ごしたトゥハチェフスキーだった。
- ^ 長男フィリップ、長女エリザベート、次女アンヌの3人の子をもうけた。フィリップの名は、当時の上官で後に宿敵となったペタンが名付け親となり、彼自身から譲り受けた名である。次女アンヌは生まれつき知的障害を持っていたが、ド・ゴールはアンヌが20歳で亡くなるまで惜しみなく愛を注いで育てたと伝えられており、家族に対してすら内気だったド・ゴールが唯一心を開けていた相手がアンヌだったと親戚が揃って述懐している。イヴォンヌは次女アンヌの死をきっかけとして1934年にアンヌ・ド・ゴール基金を設立し、恵まれない子供たちへの援助を行った。
- ^ この講演を文書に纏めたものが1932年に出版された『剣の刃』である。この書は「フランス版『わが闘争』」あるいは「ド・ゴール版『我が闘争』」(ヒトラー著『我が闘争』から)とも評されている。
- ^ 准将相当官となるのは第二次世界大戦の後である。このページの文末参照。
- ^ イギリス議会や閣僚は事を荒立てることを恐れ、それを中止させようとしたが、首相であるチャーチルの指示で放送は強行された。この放送はのちにフランスの反撃の狼煙として高い価値を与えられるが、当時直接聞いていたものはほとんどおらず、また録音されていなかったため再放送されることもなかった。しかし、翌日にはまだいくらかの自由が残っていたヴィシー政権下にあるフランス南部の新聞のいくつかがこの放送について小さな記事を掲載し、徐々に知られるようになっていった。
- ^ 6月7日モーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィルが同委員会の財政担当委員となった。
- ^ 1945年の閣僚にはスエズ運河会社代表のブリンデロジェ家や、シュナイダー家と姻戚関係にあるスペイン大公の子、そしてパトリス・ド・マクマオンの子孫(Mlle de Miribel)などがいた。1944年時点ではラコステがいた。
- ^ 辞任の真意は、議会の優位を主張する政党側に対する不満があったといわれている[12]。
- ^ 連合の首脳陣にはド・ゴールと家族関係にあるブルジョアジーが見られる(妻のヴァンドルー家など)[8]。資金管理はロスチャイルド銀行(現在のバークレイズ)支配人のルネ・フィヨンへ委任された[14]。1952年には党の一部が分裂した。ド・ゴールは政争を嫌いRPFを解体した。彼にとって財界の支持こそが重要であり、RDFそのものは違ったのである。
- ^ 同年11月インドシナ銀行がルクセンブルクにコンサフリク(Consafrique)を創立した。ここには現在のソジェンのハンブローズや、ランベール系のブリュフィナ(Brufina)などが参加した。
- ^ 5月24日にド・ゴールはジョルジュ・ポンピドゥーに電話して官房長官に誘った。
- ^ 1958年9月末にリュエフは産業資本家出身のアントワーヌ・ピネー蔵相が設置した経済諮問会議の委員長となり、経済再建計画を答申した。このリュエフ委員会にはラザードのパートナーで支配人のギヨー(Guyot)とかソジェン会長ロラン(Lorain)だけでなく、パリバやノーベルの重役でペシネー会長のラオウラオウも参画した[19]。ピネーはド・ゴールと意見が違ったので左遷され、フランス銀行総裁だったヴィルフリドが仕事を引き継いだ。12月にアルジェリア五ヵ年計画(コンスタンチン計画)をド・ゴールが発表した[20]。翌年初頭にかけてフランスにアメリカ資本が、一方でアフリカにドイツ資本がフランス資本の主導で誘致された[21]。なお当時のルイ・ジャキノ国大臣が夫人(Simone Lazard, 1899-1991)を通じてラザード株を20パーセント保有していた[22]。
- ^ ド・ゴールはまた、かつての自らの党であるフランス国民連合の後身・社会共和派などを結集して、新たな与党として新共和国連合(Union pour la Nouvelle République:UNR)を結成した。1959年11月26日に同党の会計係を任されたのは、ユニリーバ重役たるミゾフ海軍大将の息子であった(Bernard Misoffe)[23]。
- ^ 元々フランスはヨーロッパ最大のウラン生産国であったが、ムナナ鉱山はユーラトムの利権となった。
- ^ イギリスは隣接する植民地の香港を抱えていたため、西側諸国の中では例外的に中国大陸の実効支配を達成した中華人民共和国をその建国直後に承認していた。
- ^ 同年にリュエフがアカデミー・フランセーズ会員となった。
- ^ この中立化構想は戦後になってアメリカ側でも再評価が試みられるようになった[28]。
- ^ 1968年5月、西ドイツでは非常事態法が成立した。
- ^ パリバとラザードがBSNを支援していたが、両行は1957年4月30日ロスチャイルド銀行とも協力してサハラ・フランス会社を設立し、ド・ゴールのユーラフリカ政策に寄与した[31]。
- ^ この改革案自体は議会を通過させることが不可能ではなかったにもかかわらず、ド・ゴールは側近たちの反対を押し切って敢えて国民投票を行った。その真意は明らかではない。
- ^ パリ解放の翌日、パリ市庁舎のバルコニーから行われた民衆に向けてのスピーチ。民衆は大喝采だったが、レジスタンスの働きや自由フランス軍以外の連合軍(この時点では、フランスに展開している連合軍の部隊は、ほとんどが英軍か米軍だった)の働きについて全く言及がなかったため、一部からは顰蹙を買った。
出典
- ^ 石井貫太郎「ド・ゴールの政治哲学」目白大学 文学・言語学研究 第1号 2005年
- ^ 広瀬隆 『赤い楯』 下巻 集英社 1991年 系図53 ドゴール主義と植民地政策
- ^ Quelques dates clés - france.tvpro(フランス語)
- ^ 第二次世界大戦-「ガリアの雄鶏」の最後のプライド
- ^ 『ドゴール体制と大資本』 13頁
- ^ 大井、870p
- ^ 『知っておきたい現代軍事用語【解説と使い方】』78頁、「著」・高井三郎、「発行」・アリアドネ企画、「発売」・三修社、2006年9月10日。
- ^ a b c d e 『ドゴール体制と大資本』 12頁
- ^ 大井、906-908p
- ^ a b 小野善康 1998, pp. 162.
- ^ a b 『ドゴール体制と大資本』 16頁
- ^ a b 小野善康 1998, pp. 168.
- ^ 小野善康 1998, pp. 166–167.
- ^ 『ドゴール体制と大資本』 17頁
- ^ a b c d 『ドゴール体制と大資本』 14頁
- ^ 小野善康 1998, pp. 169.
- ^ a b Georges Vedel, pp. 99.
- ^ a b 小野善康 1998, pp. 170.
- ^ 『ドゴール体制と大資本』 23-24頁
- ^ 『ドゴール体制と大資本』 69-70頁
- ^ 『ドゴール体制と大資本』 75-76、83-84頁
- ^ 『ドゴール体制と大資本』 18頁
- ^ 『ドゴール体制と大資本』 27頁
- ^ a b 『ドゴール体制と大資本』 26頁
- ^ 勝俣誠「現代アフリカ入門」第1刷、1991年11月20日(岩波書店)p17
- ^ 納家政嗣「部分的核実験禁止条約」小学館 日本大百科全書
- ^ 「アルジェリア」小学館 日本大百科全書
- ^ a b 鳥潟優子 2003, pp. 138.
- ^ D. L. Hanley、Miss A P Kerr、N. H. Waites, Contemporary France: Politics and Society Since 1945, Routledge, 2005, p.19; Max Paul Friedman, Rethinking Anti-Americanism: The History of an Exceptional Concept in American Foreign Relations, Cambridge University Press, 2012, p.169.
- ^ オリヴィエ・ジェルマントマ『日本待望論―愛するゆえに憂えるフランス人からの手紙』竹本忠雄監修、吉田好克訳、産経新聞社、1998年,p9
- ^ 『ドゴール体制と大資本』 67頁
- ^ International Biographical Center, Men of Achievement, vol.9, Melrose Press, 1983, p.635.
- ^ 石井貫太郎 2005, pp. 44.
- ^ Candidates for the 1963 Nobel Prize in Literature(英語)
- ^ a b 石井貫太郎 2005, pp. 33.
- ^ [1]
- ^ [2]
- ^ a b 『20世紀全記録 クロニック』小松左京、堺屋太一、立花隆企画委員。講談社、1987年9月21日、p591。
- ^ 鳥潟優子 2003, pp. 142.
- ^ 『世界の旅路 くにぐにの物語2 フランス』p191 千趣会1978年6月1日
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