アルジェリア戦争
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アルジェリア戦争(アルジェリアせんそう、英: Algerian War, 阿: ثورة جزائرية; 仏: Guerre d'Algérie)は、1954年から1962年にかけて主にフランス領アルジェリアで勃発した、フランスとその植民地支配に対抗するアルジェリアとの間の独立戦争。この戦争は双方に多くの犠牲があったが、結果的にはアルジェリア側の勝利に終わりエビアン協定が締結され停戦しアルジェリアは独立を達成した[1]。
- 1 アルジェリア戦争とは
- 2 アルジェリア戦争の概要
アルジェリア戦争
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「海軍航空隊 (フランス海軍)」の記事における「アルジェリア戦争」の解説
既にアルジェリアに展開していた海軍航空隊は騒乱当初から警戒任務に就いた。オラン郊外のラルティーグ海軍航空基地やモロッコのポール・リョーテ海軍航空基地から第21F、第22F、第23F海軍航空隊がロッキード P-2を用いて海上哨戒任務に就いた。海岸沿いに警戒監視し、武器密輸を阻止する。第28F海軍航空隊は当初チュニジア・ビゼルトのカロウバ海軍航空基地を拠点にコンソリデーテッド PB4Y-2で哨戒任務に就いた。 空母艦載機部隊は「アローマンシュ」、「ラファイエット」が参加しパイアセッキ HUP-2Sやシコルスキー R-5を運用した。 騒乱初期にシコルスキー S-55を装備する第10F海軍航空隊を派遣し、陸軍軽航空隊 (ALAT) と協同で輸送任務に就いた。1956年6月4日にシコルスキー H-21を陸軍軽航空隊に分権しセティフで陸軍の下で作戦した。 1956年8月1日に第31F海軍航空隊が編成された。この部隊は当初からヘリコプター化されていた。S-55とH-21は第31Fと第33F海軍航空隊で運用された。第31Fと第33F隷下の20番台の飛行中隊はそれぞれ1956年に新型機に更新されている。
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アルジェリア戦争
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「ジャック・フォール」の記事における「アルジェリア戦争」の解説
アルジェリアに着任した当初はカビリー山地に展開していた第27山岳歩兵旅団長を務め、その間に少将に昇進した。その年の12月にフォールはアルジェに向かい、県官房長であるポール・テチェンを訪問する。ここでテチェンに対してフォールは驚くべき内容の話を伝えた。それはクリスマス終了後にロベール・ラコスト総督が休暇に入ることが判っており、道中のところで逮捕してアルジェリア派遣軍総司令官に就任したばかりのラウル・サラン将軍を担ぎ出し、クーデターを起こそうとする話であった。この会話はテチェンの機転により録音されており、モーリス・ブルジェ=モーヌリ国防相に伝えられた。フォールは本国に召還され3ヶ月間の要塞内禁錮の刑に処された。 軍務に復帰した後はアルジェリアに戻りカビリー管区司令官などを務める。バリケードの一週間の終結後、暴動に関与した咎で本国に召還され閉職に就く。その後も政府に対して不満を持つ軍人達と接触を続け、1961年3月にはスペインマドリードにいたサランを訪ね、反乱を計画していることを伝えた。4月になり将軍達の反乱に参加、予定ではアルジェの動きに呼応してパリ郊外に待機させた、フォールの影響下にある空挺部隊と戦車部隊で政経中枢部の制圧を行なうはずであった。 4月23日、決起まもなく内務省国家警察に逮捕され、その後の裁判で禁錮10年の刑に処された。 1968年、恩赦により釈放され、1974年に軍籍回復が認められた。1988年に亡くなる。
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アルジェリア戦争
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「エドモン・ジュオー」の記事における「アルジェリア戦争」の解説
1956年に空軍中将に昇進、1957年にはアルジェリアに駐留する第5空軍管区の司令官となり、アルジェリア駐留フランス軍の最高司令官ラウル・サラン将軍の指揮下に入った。 1958年、空軍大将に昇進、空軍参謀総長、空軍査察総官など歴任する。 1960年10月15日、退役となる。
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アルジェリア戦争
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1956年12月24日、アルジェリア駐留第10軍司令官に就任。当初は、インドシナ戦争「敗戦司令官」であるサランに対してコロンたちは裏切り者・売国奴と見る向きがあった。翌1957年1月16日には、第10軍本部庁舎にあるサランの執務室に向かってバズーカが撃ち込まれる事件が発生、ロディエ大佐が死亡した。実行犯は、コロン過激派であるフィリップ・カストリとミシェル・フェショであった。そしてその後援者には、ルネ・コヴァック(「フランスのアルジェリア」運動に身を投じている医者)とサランの代理を務めようとしたルネ・コニー将軍がいることが判明。しかし、コヴァックらが関与のした証拠は不十分であった。詳細はバズーカ事件を参照。 9月30日、相次ぐコロンとFLNの間の爆弾テロ合戦はエスカレートするばかりであった。12月28日にはアメデ・フロジェアルジェ市長が拳銃で暗殺されるにいたり、翌1957年1月7日ラコスト総督の要請に基づき、スエズ帰りのジャック・マシュウ将軍率いる第10落下傘師団に出動を命じた。これがアルジェの戦いの始まりである。苛烈な掃討戦が終わる頃にはFLNは壊滅的打撃を受け、特にアルジェでは活動できなくなり地方でのゲリラ戦に移行した。FLNの聖域と化していたチュニジアとの国境線付近にモーリス線を設置。物資の供給を遮断した。この頃にはFLNのもとに東側諸国からの援助物資が届くようになっていた。地方においてもアルジェと同じく民間人、なかんずくアルジェリア人が多く犠牲となる悲惨な戦いが続くこととなった。 1958年5月の危機(アルジェ動乱)で、アルジェからド・ゴール支持を訴えた。しかし、第五共和制初代大統領に就任した当のド・ゴールはサラン他アルジェリア駐留軍の態度を良しとせず、12月12日に実質的に名誉職となっていたパリ軍事総督に着任すること命じられた。 1960年6月10日、退役。
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アルジェリア戦争
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「ウォーターボーディング」の記事における「アルジェリア戦争」の解説
アルジェリア戦争の間にも行われた。フランスのジャーナリストのアンリ・アレッグが1957年にアルジェリアでフランスの落下傘部隊の兵士にウォーターボーディング受けた直接的な経験を記事にした。この記事が発表されるとフランスで議論が巻き起こり、1958年に禁止された。 また、フランス陸軍将軍ポール・オーサレセは2001年にアルジェリア戦争時代に拷問を行ったことを告白した。
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アルジェリア戦争(1954年-1962年)
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「アルジェリアの歴史」の記事における「アルジェリア戦争(1954年-1962年)」の解説
詳細は「アルジェリア戦争」を参照 植民地独立運動の激化によりフランスは第一次インドシナ戦争を続けていたが、ディエンビエンフーの戦いの敗北により、1954年にピエール・マンデス・フランス首相はジュネーヴ休戦協定が結んで仏領インドシナ連邦の統治下にあったベトナム国などの独立を承認した。このことは、他のフランス植民地における独立運動を力付けることになった。1954年にはそれまでの何れのナショナリズム勢力からも距離を置き、フランスからの独立を標榜する「民族解放戦線」(FLN)が結成され、ゲリラ活動をアルジェリア、フランスで展開した。 北アフリカ植民地のうちチュニジアとモロッコは1956年3月に独立を果たした。しかし、フランス保護領として君主国の組織が維持されていた両国と異なり、フランス本土の一部として扱われ、多くのヨーロッパ系市民(コロン、ピエ・ノワール)を抱えるアルジェリアに対してはフランス世論も独立反対の声が強く、フランス政府は独立を認めなかった。これに対し、FLNはかつての穏健派だったアッバースやアルジェリア・ウラマー協会などのアルジェリア社会に影響力を持つ人々からの支持を取り付けた。1957年にはアルジェの戦いでフランス陸軍の空挺部隊が独立派を大弾圧し、「フランスのアルジェリア」政策の維持を図った。大打撃を受けたFLNは拠点をモロッコやチュニジアに移し、1958年にはナセル政権の計らいでエジプトのカイロにアルジェリア臨時政府が樹立された。こうして第三世界各国からのアルジェリア独立の支援も始まり、日本からも全学連や、宇都宮徳馬などがFLNを援助した。 フランス政府はアルジェリアのムスリム(アンディジェーヌ)にフランス人としての完全な市民権を付与することで懐柔をはかろうとするが、特権を維持することを望むコロンたちの反発を買った。アルジェリア在留のフランス軍空挺部隊はコルシカ島を占領し、クーデターを起こそうとした。 このような混迷の中でフランスは引退していた英雄に事態の収拾を求め、ド・ゴールが大統領に就任し、憲法を改正して第五共和政が成立した。ド・ゴールは内外の情勢を鑑みて植民地解放政策をとり、1959年にはアルジェリアの独立を承認しようとした。軍は軍事拠点としてのアルジェリアの重要性を叫び、アルジェリア在住の100万人のコロンは「フランスのアルジェリア」をスローガンの下独立に反対したが、ド・ゴールは指導力を発揮してこの難局を切り抜けた。1961年にエヴィアン協定が結ばれ、7年に渡るアルジェリア戦争は終結した。コロンや軍部の極右派は秘密軍事組織(OAS)を結成してフランス当局やムスリムに対するテロを繰り広げたが、住民投票の結果、独立承認が圧倒的支持を集め、アルジェリアは独立した。戦争による死者は100万人に達したとされている。 アルジェリア革命は脱植民地化時代のブラックアフリカの独立革命に多大な影響を与え、第三世界諸国からも多大な支持が寄せられた。マルティニーク出身の精神分析家フランツ・ファノンはFLNに参加する傍ら独自の革命理論を体系化し、後のチェ・ゲバラと共に1960年代の第三世界の革命運動やポストコロニアリズムに大きな影響を与えた。 独立に伴い、100万人のヨーロッパ系アルジェリア人は大挙してフランスに逃亡した。フランスに協力したムスリムのアルジェリア人(アルキ)もフランスに亡命できなかった者は報復により虐殺された。アルジェリアを統治していたフランス政府は植民地時代に一貫して必要な改革を施すことを拒否し、ムスリムの権利拡大を認めなかった。ヨーロッパ系アルジェリア人は終始ヨーロッパ人としての特権の維持を求め、アルジェリアに住むベルベル人やアラブ人との協力を最後まで拒み、そのことがヨーロッパ系アルジェリア人とアラブ系、ベルベル系のアルジェリア人が融和した国家を目指す穏健な独立運動の発展を阻害した。その帰結として100万のヨーロッパ系アルジェリア人は、生まれ育ったアルジェリアを永遠に失うことになった。
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アルジェリア戦争
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「モーリス・シャール」の記事における「アルジェリア戦争」の解説
サラン将軍の突然の変心(アルジェ動乱)の後、シャールは1958年12月12日にアルジェに戻り第10軍管区総監に就任し、民政を担当するアルジェリア総督代理にはポール・ドルーヴリエが就任した。この人事によりアルジェリアにおける軍政に終止符が打たれることとなった。FLNに対する大規模攻勢を仕掛けるも(シャール計画)、戦術的には勝利を収めていたが政治戦略的には戦果は芳しくなく、1960年1月に辞任。NATO中央欧州連合軍(AFCENT)司令長官となる。事実上の懲罰であった。 1961年4月21日に、将軍達の反乱を起こすも、失敗し投降。
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アルジェリア戦争
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「ジャック・マシュ」の記事における「アルジェリア戦争」の解説
1955年に落下傘旅団長に着任。1957年に第10落下傘師団長に着任、アルジェの戦いでは一般市民を多く巻き込んだ戦争の終決の為には手段を選ばず、ゼネラル・ストライキの打破と不審な家屋の破壊、容疑者だけでなくアルジェリア民族解放戦線支持者の逮捕、時には拷問も辞さず苛烈な掃討作戦を実行した(ただし、ジャミラ・ブーパシャの連行・拷問に象徴される部下のやりすぎには直接関与していないといわれている)。 1957年には、ジャック・マシュの命令を受けたフランス軍士官らがフランス人数学者であり、アルジェリア共産党員として抵抗活動を行っていたモーリス・オーダンを拷問の上で殺害している。 1958年5月にはアルジェ動乱が発生、「フランスのアルジェリア」を求める公安委員会を宣言し、ド・ゴール支持を表明し、フランス第五共和政が成立することとなった。 しかし、もともとは「フランスのアルジェリア」支持者であったマシュは、ド・ゴール大統領が表明した民族自決政策を批判。遂に1960年1月、フランス本土に召還されたうえで大統領命令により落下傘師団長を解任された(詳細はマシュ師団長解任事件を参照)。その後、4月には将軍達の反乱が起きるが、国民的英雄でもある現役将軍、つまりマシュを欠いた叛乱は失敗に終わった。 1962年に、メス軍事総督に着任。
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アルジェリア戦争
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「アントワーヌ・アルグー」の記事における「アルジェリア戦争」の解説
アルグーは1954年11月1日のオーレス蜂起(英語版)の後、第7機甲師団隷下の1個旅団を改編し核戦争対応部隊実験を開始した。アルジェリアにおいては1956年に第3アフリカ猟兵連隊の連隊長に就任、その後第10落下傘師団参謀長として対反乱作戦に腕を振るっていた。しかし、同時期の将校達とは一線を画すほど冷酷かつ無慈悲であった。アルジェの戦いと平行してアルジェ近郊のラルバ平定作戦の際には、ストライキをしていた商店のシャッターに戦車砲を至近距離から射撃したり、逮捕者に対する拷問や公開処刑すら行なった。 アルジェの戦いの後フランス本国に転属したが、1959年秋にアルジェリアに戻り第10落下傘師団参謀長に復帰した。この頃には反ド・ゴール派としてパリの政策を公然と批判し師団長ジャック・マシュ将軍に強い影響を及ぼしていた。アルジェリア総督代理ポール・ドルーブリエに対しては会議の席上でその政治姿勢を机上の空論と言い放ち、現場で住民達と接触している軍が現実を知っていると強烈に非難する有様であった。さらにピエ・ノワールの極右活動家ジョゼフ・オルティスなどと接触を持ち始め、次第に軍の指揮系統から逸脱し始める。 1960年1月、マシュ師団長解任事件に端を発するバリケードの一週間において、アルグーは「大佐ソビエト」と呼ばれる将校団を率いて公然・非公然と極右過激派「ウルトラ」に支援を与え騒乱の中心的人物として行動しド・ゴール排斥を狙ったが、ド・ゴールの断固たる態度と出動部隊の交代により陰謀は瓦解した。その後、責任を問われフランス本国に召還されたが軍法会議にかけられることは無く地方駐屯地への左遷にとどまった。この間にはイーヴ・ゴダール大佐などと密会を繰り返し、来るべき反乱の準備をしていた。もっとも反乱の指導者として担ぎ出そうとしたマシュ将軍の説得には失敗した。そのため代わりに共和社会主義的軍人とみなされ、軍部民間を問わず尊敬と名誉を集めていたモーリス・シャール将軍に接触を開始、執拗に説得を繰り返した。 1961年4月、将軍達の反乱が始まりアルグーはまだ態度を決めかねていたオー=ラン県管区司令官プーイィ将軍の説得にギャルティ退役将軍と共に向かった。しかし、ここで司令部の将軍全員が反対の姿勢を決め込みアルグーは同行していたマスロー大佐に逮捕を命じたがマスローはプーイィとの個人的つながりによりこれを実行しなかった。時間の経過と共に反乱部隊の旗色は悪くなり開始から5日目にして瓦解し、アルグーはカナリア諸島へ逃亡し、5月1日に執り行われた欠席裁判で死刑判決を下された。
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アルジェリア戦争
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「マルセル・ビジャール」の記事における「アルジェリア戦争」の解説
ベトミンによる洗脳工作に耐えながらの捕虜生活で黄熱病に罹患し、3か月で捕虜から解放され帰国する。ビジャールはインドシナ戦争でゲリラの本質に気付き、次の戦場においても共産主義者はゲリラ戦で挑んでくることを確信していた。休養後、フランス領アルジェリアに派遣され、既に現地に駐屯していた第3植民地落下傘連隊の連隊長に就任する。しかし、同連隊は落下傘部隊であるにも拘らず、員数を満たすため過半が予備役兵で構成され、兵達の錬度・素質はばらつきが激しかった。ビジャールは速やかに不適格者の排除に乗り出し、希望者には他部隊への転属機会を設けた。そして残留した素質優良な将兵達を山岳地帯に送り込み、2か月間に及ぶ猛訓練に励んだ。訓練終了後アルジェに戻り、パレードを実施して市民達に際立った精強さを誇示した。特にビジャールも愛用した落下傘兵用の戦闘帽(キャスケット・ビジャール)はひときわ目を引き、後に落下傘徽章と共に落下傘部隊の象徴となり、多くのフランスの青少年達の憧れとなる。 ビジャールが指揮する第3植民地落下傘連隊は、アルジェリア駐留軍にあって他の落下傘部隊の規範と見なされるようになっていた。部隊を観閲する際はヘリコプターからの着陸は好まず、あえて落下傘降下で登場し、着地と同時に見事な敬礼を見せるパフォーマンスを誇示した。第3植民地落下傘連隊は各地で掃討戦を行い、1957年のアルジェの戦いでは主力となる。ビジャールはカスバ内に潜む組織をあぶりだすため、「碁盤の目作戦」を実施して次々と容疑者を拘束していった。その過程で拘束者に対する拷問が行なわれた。しかしラルビ・ベン・ムヒディの殺害では、ビジャールの手元に居れば自殺することがなかったとされる。 アルジェでの掃討戦が終わると内陸部での戦闘に戻り、アグーネンダの戦いなどで活躍する。これらの活動により、第10落下傘師団長ジャック・マシュからはアトラス卿と賞賛された。1958年3月に連隊長をロジェ・トランキエと交代し、ジャック・シャバン・デルマス国防大臣の命により、フィリップヴィルに佐官将校向けの1か月間におよぶ教育期間の対ゲリラ戦過程を実現するように尽力し、これに供する施設をジャンヌダルク海岸に設け、落下傘部隊用の休養・士気回復センター、通称「ジャンヌダルク学校」を創設する。 1959年にセティフ管区の司令官となり、3月には戦列に復帰してシャール計画での掃討戦に参加した。1961年の将軍達の反乱では自制心を保ち、反乱軍には与しなかった。
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