アルバニア社会主義人民共和国
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アルバニア社会主義人民共和国(アルバニアしゃかいしゅぎじんみんきょうわこく、アルバニア語: Republika Popullore Socialiste e Shqipërisë)は、1946年、アルバニア王国の国王であるゾグー1世が退位し、アルバニア共産党が政権を握って誕生したバルカン半島の国家。1976年までの国号はアルバニア人民共和国(アルバニアじんみんきょうわこく、Republika Popullore e Shqipërisë)であった。
- 1 アルバニア社会主義人民共和国とは
- 2 アルバニア社会主義人民共和国の概要
アルバニア人民共和国
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詳細は「アルバニア社会主義人民共和国」を参照 アルバニアでは第二次世界大戦中にパルチザン闘争が盛んで、イタリアやドイツと戦った。戦後はエンヴェル・ホッジャによる独裁体制が成立したが、常に隣国のユーゴスラビアの存在を意識し、その指導者のチトーが独自の社会主義建設を主張した事で一層ソ連への依存度を高めた。 しかし、1956年にフルシチョフがスターリン批判を行うとホッジャは激しく反発し、国内での強権支配を一層強化して、修正主義と非難したソ連との関係を断絶した。1962年にはコメコン、1968年にはワルシャワ条約機構から脱退し、ソ連の衛星国からは完全に脱却した。 その後は中ソ対立を通じてイデオロギーが共通した中華人民共和国へと接近し、1965年からの文化大革命も「熱烈に支持」して、中国からの援助を受けた。またヨーロッパの周辺国とは事実上の鎖国状態となっていた。国交断絶後のソ連との関係はさらに悪化し、ソ連を仮想敵国と見なして国内の兵力増強に努めていた。1979年には、鄧小平による急速な改革路線に転じた中国とも断交し、孤立無援な「バルカンの孤児」と呼ばれる状態が1985年のホッジャ死後も東欧革命まで続いた。
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