エチオピア人民民主共和国
エチオピア人民民主共和国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 06:47 UTC 版)
「エチオピアの歴史」の記事における「エチオピア人民民主共和国」の解説
革命によって皇帝を排除したエチオピアの軍部だったが、急進派や学生、労働者の期待する共和制にはすぐに移行しなかった。当面の間は臨時軍事行政評議会 (Provisional Military Administration Council, PMAC) によって運営されることになり、その議長にはアスマラの反乱の調停者、アマン・アンドム中将が就任した。しかし、エリトリア出身のアンドム議長はエリトリアの独立に理解を示し、急進的な改革を好まなかった ため、1974年11月17日に解任され、11月22日に軟禁、翌23日殺害された。後任の議長にはハイレ・マリアムが臨時に代行した後テフェリ・バンテ准将が就任したが、実質的に支配していたのは議長の座を譲った、デルグ(軍部調整委員会)を手中に収めていたメンギスツ・ハイレ・マリアム陸軍少佐だった。当時の軍部を支配していた思想は「エチオピア第一主義」であり、軍による国家の統一(エリトリアとオガデンを含む)を掲げていた。これはソマリアでいう大ソマリア主義と似通った考えであった。PMACにおいて最も強硬にエチオピア第一主義を唱えていたのはメンギスツ・ハイレ・マリアム陸軍少佐であり、右派のエチオピア民主同盟 (EDU) に対抗して「社会主義政策」を提唱してPMACの実権を握った。だが、メンギスツは社会主義者ではなかった。これは、当時アフリカにおいて社会主義を提唱すると国民の側に立つ存在とされたことから、政策の内容に関係なく主張しただけであり、実際は民族主義者にすぎなかった。メンギスツが1974年にPMACを通じて発表した国の指針となる10項目の提言 も、統一国家を口実とした民族同化政策であり、アムハラ語の使用とエチオピア正教会への信仰の強制に繋がるものだった。しかし、それはかえってティグレ人、オロモ人らの民族意識を目覚めさせ、ティグレ人民解放戦線 (TPLF)、オロモ解放戦線 (OLF) 等が結成されてPMACと対立した。また、メンギスツは労働組合連合(CELU、850,000人所属)には解散を命じ、自らの思想を露わにした。
※この「エチオピア人民民主共和国」の解説は、「エチオピアの歴史」の解説の一部です。
「エチオピア人民民主共和国」を含む「エチオピアの歴史」の記事については、「エチオピアの歴史」の概要を参照ください。
- エチオピア人民民主共和国のページへのリンク