アルバニア人の民族運動
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「コソボの歴史」の記事における「アルバニア人の民族運動」の解説
1878年、オスマン帝国に対してアルバニア人の自治を求め、新しくオスマン帝国から独立したセルビアやギリシャなどによるアルバニア人地域の支配に抵抗することを目的としたアルバニア人の組織、プリズレン連盟が結成されたのは、アルバニア人の住む4つの州のうちの1つであるコソボ州のプリズレンでのことであった。1910年、秘密裏に青年トルコ人の支援を受けたと思われるアルバニア人の暴動がプリシュティナで起こり、やがてコソボ州全域へと拡大していった。暴動は3ヶ月に及び、1911年6月にはアルバニア人地域全域での停戦合意のために帝国のスルタンがコソボを訪れた。 アルバニア人による民族運動の起こりには、さまざまな理由があった。アルバニア人による民族復興運動が進められたことのほかに、各種の政治的理由が作用していた。1870年代のオスマン帝国は、急速な弱体化や、新たに独立したスラヴ人の新興国に対する敗北を経験した。1877年から1878年にかけての露土戦争では、セルビア人の軍がコソボ州の北部に侵入し、多くのアルバニア人が居住地を脱出した。加えて、サン・ステファノ条約の調印によってアルバニア人の住むオスマン帝国の土地の一部がセルビア、モンテネグロおよびブルガリアに割譲されると、バルカンに住むアルバニア人には大きな困難が訪れた。 オスマン帝国から独立していったバルカンの新興国によってアルバニア人の居住地域が分割支配されることを恐れるようになったアルバニア人たちは、1878年6月10日にプリズレン連盟を組織した。これは、ベルリン会議によってサン・ステファノ条約の内容が否定される3日前のことであった。連盟は、帝国の領土の保全を望んだスルタンの支援の下に設立されたものの、アルバニア人の指導者らは迅速にこれをアルバニア人の民族運動の組織へと改変し、帝国の政治にも関与するようになっていった。連盟は、イタリアに住むアルバニア人(アルベレシュ Arbëreshë)の支援を受け、宗教的に分断されたアルバニア人たちを統合する働きをした。連盟が続いた3年間の間に、連盟はオスマン帝国の領域内にアルバニア人の自治州を設置することを求め、防衛戦のための軍を設立した。アブデュル・フラシェリ(Abdyl Frashëri)やスレイマン・ヴォクシ(Sulejman Vokshi)らの支援の下、1881年には、ユメル・プリズレニ(Ymer Prizreni)を首班とし、アルバニア自治州を設立するための臨時政府を組織した。しかし、バルカンの新興国や列強諸国、そしてオスマン帝国による軍事的圧力によって、アルバニア人の組織は分断され、プリズレン連盟は解散となった。 コソボではこの他にもアルバニア人の民族運動を担った組織が生まれた。中でも重要なものに、1899年にペヤ / ペーチで結成されたペヤ連盟(League of Peja)があり、これはハジ・ゼカ(Haxhi Zeka)の指導の下、かつてのプリズレン連盟のメンバーたちによって設立され、アルバニア人の自治のためにかつてのプリズレン連盟と同様の役割を担うことを目指すものであった。しかし、ペヤ連盟は1900年にオスマン帝国の軍との軍事衝突によって解体され、ハジ・ゼカはオスマン帝国の当局の支援を受けたセルビアの工作員によって1902年に暗殺された。
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